2012年5月25日金曜日


聖武天皇(10)「信賞必罰」(20120525)

 『続日本紀』(講談社学術文庫 宇治谷 孟 全現代語訳)を読み進むと聖武天皇が官僚に対して信賞必罰で臨み、朝廷を統率しておられたことがわかる。以下“”で引用する。

 なお、律令制においてすべての役所には上から長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれ、この下に下級官人が仕えていた。四等官の職名は各役所ごと違っていた。例えば、近衛府では長官は「大将」、次官は「中将・少将」、判官は「将監」、主典は「将曹」であった。国司は長官が「守(かみ)」、次官が「介(すけ)」、判官が「掾(じょう)」、主典が「目(さかん)」であった。判官では大国の判官は「大掾」、主典では大国の主典は「大目」などと呼ばれていて位が上だった。

なお、民部省・兵部省・大蔵省などの長官は、今の中央官庁の事務次官のようなものであった。3.11大震災と福島第一原発事故は人災の側面が大きい。国会議員・中央官庁官僚が「奉公に勤めないため」起きたとも言えるのではないか。

 “神亀四年(727二月二十一日 天皇が内安殿に出御し、詔(みことのり)して文武百官の主典(さかん)以上の者を召し入れられた。左大臣正二位の長屋王が勅(みことのり)をのべて、次のように言った。
 「この頃天の咎めのしるしがしきりにあり、災異がやまない。時の政治が道理に背き、民の心が愁いうらむようになると、天地の神々はこれを責めて、鬼神が異状を表すと聞く。
 朕(ちん)が民に徳を施すことが顕著でなく、そのために怠りが欠けるところがあるのであろうか。または百寮の官人が奉公に勤めないためであろうか。朕は九重の奥に離れて暮らしているにで、いまだ詳しく判らないことが多い。諸司の長官に命じて、各官司の主典以上の官人について、心を公務にくだき勤務状況の目だって良い者と、心に偽りを抱いてその職務を尽くさない者との二種類を選び、その名を記して奏上させることとする。その上で良い者は功績をはかって昇進させ、悪い者はその行状に応じて官位を下降させる。各長官はよろしく隠しはばかることなく報告し、朕の意に副うように。」
 この日、使者を七道の諸国に派遣し、国司の治政状況と勤怠の実情を巡監させた。”

 長屋王は後に国家転覆の罪で自殺させられた。妻の吉備内親王と四人の息子たちはそれぞれ自ら首をくくって死んだ。遺跡から発掘された木簡から広大な長屋王の邸宅には後に聖武天皇の皇后となられた光明子が入居されたのではないかと推定する人もいる。(参考:講談社学術文庫『平城京と木簡の世紀』渡辺晃宏著。但し、著者は推測を交え、長屋王の変が藤原氏によって仕組まれたとする説を唱えている。この部分について著者は先入観と推測でものを言っていることや、長屋王への尋問等諸状況から絶対承服できない。

 “三月十日 天皇は正殿(大極殿)に出御し、詔して善政を行った官人に禄物を賜った。最上と判定された二位の者には絁(あしぎぬ)百疋・五位以上の者には四十疋・六位以下の者に二十疋、次上と判定された五位以上の者に二十疋・六位以下の者に十疋、中等とされた者には賜り物はなく、下等とされた者はすべて職を解かれた。”

 “十二月二十日 これより先に使者を七道諸国に遣わして。国司の勤務状況と治政業績を巡察させた。使者たちはここに至って報告書を提出した。天皇は使者の奏上によって、上等の者には位を二階、中等の者には一階を進ませ、下等の者には今回の昇進選考を取止め、最も甚だしく法を犯した丹後守・従五位下の羽林(はねばやし)連兄麻呂(えまろ)を流罪に処し、周防(すほう)国の目(さかん)の川原史(かわはらのふみと)石庭(いわにわ)らは除名(官位剥奪)に処せられた。”