2012年5月16日水曜日


聖武天皇(1)「唐(シナ)・新羅(朝鮮)連合軍との戦いに思いを馳せつつ」(20120516)

 聖武天皇の諡号(しごう)は天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしひらきとよさくらひこすめらみこと)である。聖武天皇は出家して仏に帰依されたので、薨去されたとき諡号はなかったが第四六代孝謙天皇があらためてこの諡号を贈られた。聖武天皇は14歳のとき皇太子になられた。皇太子は第四四代元正天皇の禅(ゆず)りを受けて大極殿(だいごくでん)に即位された。

そのとき詔されたお言葉の終りの方に次のことがある。講談社学術文庫『続日本紀』(現代語訳:宇治谷 孟)“”で引用する。
“内外の文武の職事官および五位以上の位階の父の後継ぎとなる者に、勲位一階を授ける。百歳以上の高齢者には籾一斛(こく)五斗を、九十歳以上には一石、八十歳以上の者と、みなし子・独居老人の自活できない者には五斗を給する。孝子・順孫・義夫・節婦は、すべて村里の門にその旨を標示し、租税負担を終身免除とする。全国で兵士に挑発されている者には、今年の調(みつぎ)を半減し、京機内の兵士はすべて免除とする。また諸官司に奉仕の仕事をしている韓人部(からひとども)(渡来の下級官吏)のいくらかには、その担当の仕事にちなんだ姓名(かばねな)を与える。また百官の官人および京内の僧尼には、手渡しに賜り物を授ける”。

100歳以上とか90歳以上とかこの時代随分長生きしている人もいたのであろう。また独り暮らしの老人もいた。租税を国(当時の朝廷)にきちんと納め法令を徹底させ、地方行政や教育を監督し、地方を振興させることなどの仕事は各国に派遣される国司(今でいえば「県知事」のようなもの)の役目であった。国司は中央官人(今でいえば国家公務員のようなもの)であった。それぞれの国(今でいえば「県」のようなもの)では、地方官人(今でいえば地方公務員のようなもの)は、国司の指揮のもと租税徴収・行政・教育・軍事訓練などの業務を行い、食糧倉庫や武器倉庫を管理していた。これらの倉庫は国(朝廷)が定める法令に従って設置されていた。長生きした人達に対する給付は、食糧倉庫に蓄えられていたものによって行われたと考えられる。

日本の権益が及んでいた百済に唐(当時のシナ)が13万人の兵員を送り込み、百済が侵略されていたとき、百済から唐の勢力を追い出すため、及び唐軍1万人が今のソウルの一画を占領したとき勢いづいた新羅が百済の占領を狙っていたのでその新羅を討伐するため、日本から軍船800隻ほど(日本側記録では400隻)と42千人余りの兵員からなる官軍が朝鮮に送り込まれた。戦争の準備は第三七代斉明天皇(655661年)が詔して行なわれた。船は今の静岡県で造られた。軍勢42千人にうち5000人は日本に滞在していた百済の王子で百済の王となるべき人物・豊璋(ほうしょう)を武器・食糧・支援物資とともに百済に送る護衛部隊であった。また1万人余りは今の静岡県から、残りの27千人余りは今の滋賀県から出征した健児たちであった。

斉明天皇崩御後皇太子中大兄皇子が即位し天智天皇となられた。天智天皇の御世・天智三年(663)、遠征部隊は今の仁川(インチョン)近くの錦江(クムカン)河口付近にあった白村江で、海からは唐(当時のシナ)の170隻からなる当時の大型艦で構成された海軍、陸からは新羅の陸軍の挟み撃ちに遭い、非常に激しい戦いの末日本軍は大敗した。そして百済から数千人の王族・庶民が日本に引き揚げてきた。聖武天皇の御世、朝廷に仕えていた人びとには王族・学者・技術者等位階の高い人もいたが、諸官司に奉仕する仕事をしていた韓人部と呼ばれた百済からの帰化人たちもいたのである。