2012年5月23日水曜日


聖武天皇(8)「シナの皇帝やその皇帝の冊封下の朝鮮の王との違い」(20120523)

 神亀三年(726)“二月二十一日 次のように制した。
 内命婦(五位以上の位階の婦人)が、五位の位階をもちながら、六位以下に相当する官職に任じられた場合、今後は正六位相当の官職の俸給を支給せよ。”
 女性はその特性上、いろいろな立場で職場を変えさせられることがあったのであろうか? 給与は女性たちの勤務の実態に応じて支払われたのである。江戸時代の大奥の場合どうであったのだろうか? 興味にあるとこころである。

 “六月十四日 次のように詔した。
 民の中には長患いにかかり、治らない者、あるいは重病にかかり昼夜苦しんでいる者がある。朕は民の父母として、どうして憐れまずにおられようか。医者と薬を左右京・四機内及び六道の諸国に送り、このような病に苦しむ者を助け治療し皆に安らぎを得させ、病の軽重に応じ籾を与え恵みを加えよ。所司はよく心掛けて朕の心に適うよう努力せよ。”

 第十六代仁徳天皇(313年~399年)の御世、四年(316)の春二月に、天皇は高台から遠くを望み家々から煙が立ち昇っていないのをご覧になられて「百姓(おほみたから)既に貧しくして、家に炊(いひかし)く者(ひと)無きか。」と憂えたが、七年(319)夏四月に天皇は台の上から遠くを望み、家々から煙が多く立ち昇っているのをご覧になられて「朕(われ)、既に富めり。更に愁い無し」と喜ばれ、「其(そ)れ天(あめ)の君(きみ)を立つるは、是(これ)百姓(おほみたから)の為になり。」と仰せられた。当時百姓とは農民だけではなく、各種の業務を行う一般庶民のことである。業務で異なる姓が沢山あるので百姓と言っていたのである。
 
天皇は古来常に民を慈しみ、民の幸せを願って来られた。このようなことが、シナの皇帝やシナの皇帝の冊封下に安んじていた朝鮮の王にあったであろうか?日本とシナ・朝鮮との根本的な違いはここにある。

 江戸時代末期の歴史家・詩人・頼山陽はこの故事を漢詩にしている。それは以下のとおりである。詩吟ではこれがよく吟じられている。
   炊煙起(すいえんおこる)
 煙未だ浮かばず。天皇憂(うれ)ふ。
 煙已(すで)に起こる。天皇喜ぶ。
 漏屋(ろうおく)敝衣(へい)赤子(せきし)を富ましむ。
 子富みて父貧しき此の理無し。
 八州に縷々(るる)たり百万の煙。
 皇統を簇擁(そうよう)して長く天に接す。