2012年5月19日土曜日


聖武天皇(4)「板屋や草ぶきの御所」(20120519)

 引き続き『続日本紀』から関心がある部分を“”で引用する。
 “十月五日 天皇は紀伊(き)国に行幸された。”その行幸先で
 “忍海手人大海(おしぬみのてひとおおあま)ら兄弟六人に、手人(工匠)の名称を除き、外祖父である従五位上の津守(つもり)連通(とおる)の氏姓に従わせた。”
 “十月二十三日 天皇の一行は平城宮に還った。”
 “十月二十九日 これより先、散位(さんい)・従五位下の息長真人臣足(おきながのまひとおみたり)を出雲按察使(いずものあぜち)に任じたが、その任にある時、みだりに不正な財物を取った。その行状をとがめて位禄を召し上げた。”

 散位(さんに・さんい)とは職務を持たない官人、つまり位階だけしか持っていない者のことであり、真人とは天皇・皇太子の子孫である。天皇はそのような身分の高い息長真人臣足に折角出雲地方の行政を監督する令外官である出雲按察使という官職を与えたのに、息長真人臣足汚職をしてしまったのである。いくら名門で地位が高くても不正に対しては厳しく処断された。位禄が召し上げられれば、家族を養えず、家人に給与も払えず、一家離散、皇族の系統と雖も乞食・野垂れ死にの憂き目に遭ったのである。

 “十一月八日 太政官が次のように奏言した。
 大昔は人間が淳朴で、冬は土中に居室をつくり、夏は樹上をすみかとしました。後の時代の聖人は、そのかわりに宮室をつくり、また京師(都)をこしらえて、帝王はそこを住居としました。万国の使者が参朝する所は壮麗でなければ、どうして帝王の徳を表すことができるでしょうか。今、平城宮に見られる板屋や草ぶきの家は、大昔のなごりで、造るのに難しく、こわれ易くて、人民の財を無駄に費やすことになっています。そこで五位以上の官人や、庶民のなかでも造営する力のある者には、瓦ぶきの家を建てさせ、赤や白の色を塗らせるように、有司に命ぜられるように要望します。この奏言は許可された。”

 今で言えば内閣総理大臣の職にある人が、このようなことを天皇に申し上げた。神亀元年は西暦724年である。奈良の都でこの年になって天皇の御所は板屋や草ぶきだったし、都に住む貴族の家々も極めて質素なものであったのだろうと推察される。ただ、瓦は製造されていたので、お寺の屋根は瓦葺だったのだろうか?

シナの皇帝や朝鮮の王の住居は贅沢を尽くしていたようであるが、日本国の天皇の住居は質素なものであった。現在もその状況は変わらない。家具も質素そのもの、皇后陛下や皇太子妃殿下の髪形も質素で飾りはない。これが日本の天皇家のお姿である。

 所謂『魏志倭人伝』には、「倭の地は溫暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)(はだし)。屋室あり。」とあり、実際は100%この魏の「新聞記者」の書いたとおりではないと思うが、魏(西暦220年~223年)の頃、北九州では高床式或いは掘立式の家があったのであろう。