2012年5月17日木曜日


聖武天皇(2)「この時代も財政難?」(20120517)

 引き続き講談社学術文庫『続日本紀』から “”で引用する。
 “神亀元年(724)二月二十五日 陸奥国鎮守の軍卒たちが、自分たちの本籍をこの地に移して、父母妻子を呼んで一緒に生活したいと願ったのでこれを許した。”

 奈良時代、朝廷が行う国事を担当する鎮守府が多賀城に置かれていた。そこに勤務する兵士たちは陸奥国各郡からも徴用されていたであろう。父母妻子から離れて暮らさなければならない辛さはあったであろう。そこで自分たちが勤務する多賀城に父母や妻子たちを呼んで一緒に暮らしたいと申し出たのであろう。朝廷は彼らの本籍地の移動を許可したのである。中国では農民はその戸籍を都会に移すことが出来ない。出来ても一部の所得の高い限られた人々である。日本では1300年の昔に本籍地の移動を許可していたのである。

 “三月二十五日 七道の諸国に命じ、国の大小によって、国の保管する田租のうちから、税稲(公出挙に用いる稲)として四万束以上二十万束以下を割きとって、毎年出舉(すいこ)してその利息を取り、それを在京の朝集使(ちょうしゅうし)および臨時に遣わす使者、調・庸以外の物資を京に運ぶ人夫らの食糧に充てさせる。詳しくは格の中に定める。”

 出舉とは、種まきの時期に種を貸与し、収穫後利息をつけて種を回収する行為である。日本でも律令以前の古い時代からこのような慣行があり私的なものであったらしい。律令制下で公的な出挙の制度が定められた。ところが諸国に派遣された国司や地方官人である郡司の中には私出挙で私腹を肥やす不届き者もいたようである。ともあれ、中央から地方に出張させる官人(今の公務員)や地方から中央に物資を運ぶ業者に支払う代価を公出挙によりひねり出していたのである。今の世同様財政難であったのであろうか? なお「格」は「きゃく」と呼び、今で言えば「政令」「省令」のようなものである。

 “この日、陸奥国は次のように言上した。海道(太平洋沿岸の地域)の蝦夷(えみし)が反乱をおこし、大掾(だいじょう)・従六位上の佐伯(さえき)宿禰児屋麻呂(こやまろ)を殺しました。”

 「掾」は国司四等官の上から三番目の官位であり、大国に区分された国に派遣される者は「掾」の上に「大」が付く。陸奥国は大国であったので「大掾」である。陸奥国に先祖代々住みついてきた人々が朝廷の支配に反発して反乱を起こしたのであろうか、国司の一員であった佐伯宿禰児屋麻呂という人が殺されたのである。