2012年5月30日水曜日


聖武天皇(15)「日本最古の音楽舞踊大学」(20120530)

   日本最古の「音楽舞踊大学」である雅楽寮(うたまいのつかさ)が設立されたのは、第四二代文武天皇の御世の大宝元年(701)のことである。シナ(中国)から奪われていた旧高麗の領土を回復し、日本との交流の再開を求めてやってきた渤海からの使いの船が漂着した蝦夷の地で災難に遭いながら生き残った8人が聖武天皇に拝謁したとき、天皇は彼らに位を授け、位階に応じた服装を与え、宴会に招き、雅楽寮の音楽でもてなした。(『聖武天皇(11)「シナ人(漢族)による侵略から高句麗の領土を回復した渤海との交流」(20120526)』参照。)

 その雅楽寮は、『続日本紀』(宇治谷 孟 全現代語訳、講談社学術文庫)によれば、大宝元年(701)七月二十七日、太政官が職(しき)(省の下の役所)の下の役所の一つとして雅楽寮が太政官の判任として置かれ、以後当時の政府の機関として運営されていた。以下天平三年(731) の条から“”で引用する。
“七月二十九日 雅楽(うた)寮に属する各種の楽生(がくしょう)の定員を定めた。大唐楽には三十九人、百済(くだら)楽には二十六人、高麗(こま)楽には八人、新羅(しらぎ)楽には四人、度羅(とら)楽(済州島の楽)には六十二人、諸県(もろがた)舞(日向国諸県郡の歌舞)には八人、筑紫(ちくし)舞は二十人である。大唐楽の楽生は、日本人と外国人を問わず、教習に堪える者を取り、百済・高麗・新羅などの楽生は、それぞれの国の人で、学ぶ能力のある者を取る。ただし度羅楽・諸県・筑紫舞はそれぞれ楽戸(雅楽寮に属する品部)から取る。”とある。

  放送大学印刷教材‘88『音楽史と音楽論』(柴田南雄教授)に「令義解」という史料のコピーが紹介されている。史料には「頭一人云々」とある。「頭」は「かみ」と呼び、雅楽寮の長官(うたまいのつかさのかみ)のことである。以下印刷教材から“”で引用する。

 “それは中国の唐の「教坊」の制度に拠ったものだが、長官以下の管理職6名、教授37名、奏楽のための笛工(ふえふき)8名、雇人22名以上、生徒定員数356名という大規模なものであった。和楽・唐楽・三韓楽・伎楽の4科に分かれていたが、このうちの和楽とは、神楽(かぐら)、風俗歌など、この時代までに定着して日本ふうになり切っていた音楽であろう。”

  ここで「伎楽」とは、“612(推古帝20)年に百済の楽人味摩之(みまし)が、中国南方(江南地方か)の呉(くれ)の伎楽(仏教の仮面付パントマイムとその音楽)を学んで来日、桜井に住んで少年たちを教えた。これが外人教師による個人レッスン、早教育の事始めである。”(同印刷教材から引用。なお、岩波文庫『日本書紀』推古天皇二十年の条にこの事実の記事がある。)

 “雅楽寮は制度などの変遷を経ながらも、約250年間継続する。(中略)この雅楽寮を1879(明治12)年に設置された音楽取調掛―-のちの東京音楽学校、東京芸術大学音楽学部―-と比較することはたいへん興味深い。・・(中略)・・往時は唐楽・三韓(朝鮮3国)楽と国別であり、それぞれの国の音楽家が招かれて師となったが・・(中略)・・今日それら作曲科、器楽科、声楽科等々の分科の中で講座を担当する教官が、ドイツに留学した人であるとか、イタリア、あるいはフランスで修業した人であるかによって、現実には《ドイツ楽》《イタリア楽》《フランス楽》を講じ、学生に修得せしめている。”

 “731(天平3)年には渡羅(とら)楽(今日のタイ南部の音楽。異説もある。)が最大の学科となり、736(天平8)に伝来した林邑(りんゆう)楽(林邑はベトナムだが、僧仏哲が持ち帰ったインドの音楽)が、809(大同4)年には雅楽寮の教科目に加わった。”

 これより前の749年には、東大寺で渤海(ぼっかい)楽(旧満州すなわち中国東北から沿海州にかけてのツングース族の国の音楽)が唐楽、伎楽とともに上演されるなど、8世紀を通じて東洋のあらゆる国の音楽が首都を中心に行われていた。”

 “雅楽寮の生徒定員356名というのは、当時の人口推定550万ないし600万に比して、かなり多い。もし、単純に今日の日本の総人口との比率から考えるなら、生徒数7000名ほどのマンモス大学に相当する。”