2012年5月28日月曜日


聖武天皇(13)「長屋王の変(2)」(20120528)

 当時国家転覆の企みは重罪であった。長屋王は当時の政界を取り仕切り、天皇の名において信賞必罰等を厳しく行っていたため怨みを買っていたかもしれない。「長屋王が妖術を学んでいる」と密告した無位の中臣処連東人はその後官人に取り立てられて外従五位下右兵庫頭(うひょうごのかみ)まで昇進していたが、事実を偽って長屋王を告発したということがわかってきたらしい。左兵庫少属従八位下の大伴宿禰子虫と東人は左兵庫と右兵庫という所属は違っていたが、ある意味で同僚で、囲碁仲間でもあった。東人は子虫と囲碁をしている場で子虫に切り殺された。それは囲碁をしながらの話が長屋王のことに及んだ時のことであった。『続日本紀』には「子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る厚遇を受けていた。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である」と書かれている。

なお長屋王の弟の鈴鹿王はその後天平九年八月二十八日に「知太政官事」に任じられている。天皇に代わって政務を代行することができる地位である。今いえば内閣総理大臣のようなものである。冤罪で自殺・一家心中に追い込まれた長屋王と同じ立場になったということである。

ものの本などには、「長屋王の変」を藤原家の陰謀だとか皇室内の争いだとか推定で勝手なことが書かれているがいずれも人心を惑わすものである。それだけではなく、左翼的な人や日本を貶めたい一部のシナ(中国)人や韓国人らに気付かぬうちに利用されている。特に東大の歴史学者らは学術的に掘り下げたことを書いているが、余計な私見を文中に忍び込ませているようである。そういう学術的図書を参考にしながら、『続日本紀』に書かれていることをそのまま素直に読み取ることが必要である。

“天平元年(729)二月十二日 長屋王を自殺させた。その妻で二品(ほん)の吉備(きび)内親王、息子で従四位下の膳夫(かしわで)王・無位の桑田(くわた)王・葛木(かずらぎ)王・鉤取王らも長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。そこで邸内に残る人々を皆捕えて、左右の衛士府などに監禁した。”

 “二月十三日 使いを遣わして長屋王と吉備内親王の遺骸を生馬(いこま)山(生駒山)に葬った。そこで天皇は次のように勅した。
 「吉備内親王には罪がないから、例に準じて送葬せよ。ただ笛や太鼓による葬楽はやめよ。その家令(三位以上に賜る家政処理の職員)や帳内(親王に賜る舎人)らはともに放免する。長屋王は犯した罪により誅せられたのであるから、罪人であるとはいえ皇族なので、その葬り方を醜いものにしてはならない。
 長屋王は天武(てんむ)天皇の孫で、高市(たけち)親王の子であり、吉備(きび)内親王は日並知皇子尊(ひなめしのみこのみこと)(天武天皇皇太子草壁(くさかべ)皇子の、娘)である。」”

 “二月十五日 次のように詔した。
 「左大臣・正二位の長屋王は、残忍邪悪な人であったが、ついに道を誤って悪事があらわれ、よこしまの果てに、にわかに法網にかかった。そこで悪事の仲間を除去し、絶滅させよう。国司は人が集まって何事かをたくらむのを見逃してはならぬ。”

 “二月十七日 外従五位下の上毛野(かみつけの)朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)ら七人は、長屋王と意を通じていたことがとがめられ、いずれも流罪に処せられた。その他の九十人はすべて放免された。”

 “二月十八日 左大弁・正四位上の石川朝臣石足らを、長屋王の弟で従四位上の鈴鹿王の邸に遣わして、次のような勅をのべさせた。
 「長屋王の兄弟姉妹と子孫、およびそれらの妾のうち連座して罰せられるべき者たちは、男女を問わずすべて放免する。”

 “二月二十六日 長屋王の弟・姉妹と子供たちのうち、生存する者には、禄を給することが認められた。”

 “四月三日 次のように、詔した。
 「内外の文官・武官と全国の人民のうち、異端のことを学び、幻術を身につけ、種々のまじない・呪いによって、物の命を損ない傷つけるものがあれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。(以下略)」”
 “(四月三日の条の中の一部、他略)舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)。”

 “天平十年(738)七月十日 左兵庫少属(しょうさかん)・従八位下の大伴宿禰子虫(こむし)が右兵庫(うひょうごの)頭(かみ)・外従五位下の中臣処連東人(みやこのむらじあずまひと)を刀を以って切り殺した。子虫ははじめ長屋王(ながやおう)に仕えて頗る厚遇を受けていた。たまたまこの時、東人と隣り合わせの寮の役に任ぜられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵(ののし)り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である(天平元年二月十日の項)”