2012年5月26日土曜日


聖武天皇(11)「シナ人(漢族)による侵略から高句麗の領土を回復した渤海との交流」(20120526)

 高句麗は朝鮮半島中北部から満洲一帯にあった国であり、その国民は農耕と狩猟・牧畜を行っていた。668年、高句麗はシナ(唐)・新羅連合軍によって滅ぼされ、北部の高句麗遺民はシナ(唐)によってシナ営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した(以上、ウキペディアより引用)。
 
 高句麗の遺民が参加した渤海は、旧高句麗の多くの領土を回復した。その渤海から727年秋、日本に友好親善を求める使者がやってきた。その渤海人とはどういう人たちであったのだろうか。韓国・北朝鮮では高句麗を朝鮮の歴史の一部であるとしているが、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあるという(ウイキペディアより引用)。
 
 一部の(或いは多くの)韓国人の反日感情の遠因は、日韓併合以前の深層心理的なものにあるのかもしれない。北朝鮮には高句麗・渤海人の血が多く残っているのではなかろうか。美人は韓国人よりも北朝鮮人の方が多い。高句麗人と新羅人はミトコンドリア遺伝子やY染色体遺伝子においても何か特徴的な違いがあるのかもしれない。勿論長い年月の間に混血してしまって遺伝子的には多様化しているであろうが・・。

“神亀四年(727)九月二十一日 渤海郡(ぼっかいぐん)王(渤海は七~十世紀頃、中国東北部から朝鮮北部まで領有した国)の使者、首領・高斉徳(こうさいとく)ら八人が出羽(でわ)国に来着した。使いを遣わして慰問し、また時節にあった服装を支給された。(蝦夷に襲われるという難にあっていた。)
 “十二月二十日 渤海王の使者の高斉徳ら八人が入京した。”
 “十二月二十九日 使者を遣わして、高斉徳らに衣服と冠・はき物を賜った(衣服の下賜は臣従させたことか)。渤海郡は、もと高麗(こま)国である。淡海朝廷(おうみのみかど)(天智朝)の七年十月、唐(とう)の将軍李勣(りせき)が高麗を伐ち滅ぼした。その後、この国の朝貢は久しく途絶えていた。ここに至って渤海郡王は、寧遠将軍の高仁義ら二十四人をわが朝へ派遣したが、蝦夷の地に漂着したために、仁義以下十六人が殺害され、首領の高斉徳ら八人が、僅かに死を免れて来朝したのである。”

 “神亀五年(728)正月十七日 天皇が中宮に出御し、高斉徳らが渤海王の書状と土地の産物を奉った。書状の文には次のようにあった。
 「武芸(渤海第二代の王)が申し上げます。両国は山河を異にし、国土は遠く離れています。遥かに日本の政教の風聞を得て、ただ敬仰の念を増すばかりであります。恐れながら思うのに、日本の天朝は天帝の命を受け、日本国の基を開き、代々栄光を重ね、祖先より百代にも及んでいます。武芸は忝(かたじけ)なくも、不相応に諸民族を支配して、高句麗(こうくり)の旧地を回復し、扶余の古い風俗を保っています。ただし日本とは遥かに遠くへだたり、海や河がひろびろとひろがっているため、音信は通ぜず慶弔を問うこともありませんでした。しかし今後は相互に親しみ助け合って、友好的な歴史に叶うように使者を遣わし、隣国としての交わりを今日から始めたいと思います。そこで謹んで寧遠将軍郎将の高仁義・遊将軍果毅都尉(かきとい)の徳周・別将の舎航ら二十四人を派遣して書状を進め、合わせて貂(てん)の皮三百枚を持たせてお送り申し上げます。土地の産物はつまらぬものですが、献上して私の誠意を表します。皮革は珍しいものではなく、却って失笑を買って責められることを恥じます。書面の言上では充分真意が伝えられると思えませんが、機会あるごとに音信を継続して、永く隣国の好(よしみ)を厚くしたいと望みます。」

 そこで天皇は高斉徳ら八人に正六位上を授け、位階に応じた服装を賜った。五位以上の官人と高斉徳らを宴会に招き、大射礼(だいじゃらい)及び雅楽寮の音楽でもてなした。宴が終了し身分に応じて禄が与えられた。”
 “二月十六日 従六位下の引田朝臣(ひけたのあそん)虫麻呂(むしまろ)を、渤海使を送る使者に定めた。”

 “四月十六日 斉徳(せいとく)ら八人にそれぞれ色どりのある絹布や綾・真綿を身分に応じて賜った。そして渤海郡王に書状を賜って、次のように述べられた。
 「天皇はつつしんで渤海郡王にたずねる。王の書状を読んで、王が旧高麗の領土を回復し、日本との昔の修好を求めていることを具(つぶさ)に知った。朕はこれを喜ぶものである。王はよろしく仁義の心で国内を監督撫育し、両国は遠く海を隔てていても、今後も往来を絶たぬようにしよう。そこで首領の高斉徳らが帰国のついでに、信書ならびに贈物として綵帛(さいはく)十疋・綾十疋・絁二十疋・絹糸百絇(く)・真綿二百屯を託す。このため一行を送り届ける使者を任命し、それを遣わして帰郷させる。気候はやや暑くなってきたが、貴国の平安で好適であることを期待しています。」”

 “六月五日 渤海(ぼっかい)の使節を送って行く使者らが天皇に拝謁した。”
 “六月七日 使節を送って行く船の水手(かこ)(水夫)以上すべて六十二人に、身分に応じて位階を授けた。”