2012年6月7日木曜日


万葉集に学ぶ「神代より言い伝て来らくそらみつ大和の国は・・」(20120607)

 神代より 言い伝(つ)て来(く)らく そらみつ大和の国は 皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども たかひかる 日の大朝廷(おおみかど) 神ながら 愛(め)で盛りに 天の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨(おほみこと) 反して大命(おほみこと)といふ (いただき)き持ちて 唐(もろこし)の遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原の 辺(へ)にも沖にも 神留(かむづ)まり うしはきいます 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ) 反して、 ふなのへと云ふ 導きまをし 天地の 大御神たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔(あまがけ)り 見渡したまひ 事終はり 帰らむ日には また更に 大御神たち 大和の 船舳(ふなのへ)に み手うち掛けて 墨縄(すみなは)を 延へたるごとく あぢかをし 血鹿(ちか)の崎より 大伴の 三津の浜辺に 直泊(ただは)てに み舟は泊てむ つつみなく 幸くいまして はや帰りませ

  反 歌
大伴の 三津の松原 かき掃きて 我立ちまたむ はや帰りませ
難波津に み舟泊てぬと 聞こえ来(こ)ば 紐解き放(さ)けて 立ち走りせぬ

  天平五年五月三月一日に、良(ら)の宅にして対面し、献るは三日なり。
  山上憶良謹上 大唐大使卿 記室

(以上、巻五の八九四、八九五、八九六より)。

 この歌は、山上憶良が自宅で第九次遣唐大使多治比真人広成と対面したとき、広成に贈った歌である。広成は、天宝二年第七次遣唐使船に乗って唐に渡り、慶雲元年(704)に帰国している山上憶良にその体験を聞こうと思って憶良邸を訪れたのである。

 その広成は天平五年(733)三月二十六日 天皇に別れの拝謁をし、天皇は彼に節刀を授けている。そして、夏四月三日、遣唐船の四隻が難波(なにわ)の津(つ)より進発している。
 
 一方その第九次遣唐使船団は帰国のため唐の蘇州(長江河口南側、上海に近い)の港を出発後暴風雨に遭い、四隻の船がお互い見失い、遣唐使の一員である判官の平群朝臣広成(遣唐大使多治比真人広成とは別人)らが乗った船の115人はインドシナ半島メコン川下流地域の崑崙(こんろん)国に漂着し、この船の生き残りは平群朝臣広成(遣唐大使多治比真人広成とは別人)ら四人だけだった。

 遣唐大使多治比真人広成らは天平六年(734)旧暦十一月二十日遣唐大使多治比真人広成(ひろなり)らが多禰嶋(たねのしま)(種子島)に帰りつき、翌年三月十日帰朝し節刀を返上している。(関連:本ブログ『聖武天皇(18)「近畿地方の直下型大地震(?)・天然痘の大流行・飢饉の発生」(20120602)』及び『聖武天皇(19)「帰国途中の第9次遣唐船団遭難とその後のいきさつ」(30120603)』)

 この歌の初めの部分は、「わが日本国・大和の国は、神代の昔から神が威厳をもって守る国であり、言霊が幸いをもたらす国であると、語り継ぎ、言い継いできた国である」という意味である。万葉時代の人々は「言」が「事」を動かすという言霊信仰を持っていた。今を生きる日本人でも多かれ少なかれそのような意識をもっていると思われる。