2012年6月5日火曜日


聖武天皇(21)「華厳の世界を体得する手法の一つに芸術の創作がある」(20120605)

 聖武天皇が発願して成就した東大寺大仏ビルシャナ仏に象徴される華厳の世界とはどのような世界なのだろうか?夏目漱石の『草枕』に「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」とある。私は華厳の世界は、そのような人間の葛藤を超越した世界であると考える。

 井筒俊彦著『コスモスとアンチコスモス』(岩波書店)に、著者はプロティノスの『エンネアデス』の一節“あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いに中に映現している・・(中略)・・これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧と呼ばれる禅定意識に現れる華厳蔵世界海そのものの光景ではないでしょうか」”と書いている。

 華厳の世界はここに書かれているようなことを想像できても、座禅して深い瞑想の世界に至らなければ実感できないものらしい。しかし、「ひとつ一つのものが、どれも己の内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る」という部分は、人間同士の葛藤を超越することができる観念であると思う。これは武道の「合気道」に通じるものがあるのではないかと思う。般若波羅密多心経の「空」の観念にも相通じるものであるように思う。しかし修行して体得しなければ「そうだ」と言えないのではないかと思う。

 私は齢75を超えて考えるところあり、以前から憧れていた隠棲の世界に近づこうと思った。絵に親しみ、詩に親しみ、自ら絵を描き、詩を造る。正に「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」と悟る『草枕』の一節に、大いに納得した。

ものごとにはすべて表と裏、プラスとマイナス、正と反、陰と陽などなど二面性があるのだと思うと、喜びは他面悲しみであり、悲しみは他面喜びでもあることを知る。人生はおしなべてちょぼちょぼであるという気持ちになれる。例えば自分に対して暴言を吐き、命を脅かすような言葉を平気で使う人がいたとする。その人に内省した自分を見出して、その人を自分の「反面教師」にすることができる。そこに金光明最勝王経にある三種の仏の身、化身・応身・法身に関する観念が生まれ、相手に対して「憐れみ」の気持ちが生まれる。

こういう観念は仏教で得られる観念である。ゆえに仏教は宗教の範疇に入るが「人間の学」でもある。一方、仏教が「宗教」であるのは、禅定しか得られないものがあり、現実を超えたいわゆる「あの世」を素直に信じる気持ちにもなれるからであると思う。

聖武天皇はこのことがよく分かっておられたので、総合大学である東大寺を創建され、その中にビルシャナ仏である大仏を建立され、日本各地に国分寺・国分尼寺を造らせ、金光明最勝王経を読ませたのである。