2012年6月2日土曜日


聖武天皇(18)「近畿地方の直下型大地震(?)・天然痘の大流行・飢饉の発生」(20120602)

 天平6(734)旧暦47日、近畿地方に直下型大地震があった。その2年前の天平4(732)は干ばつで農作物が育たず、地震があり・暴風雨の被害があった。翌年の天平5(733)には早害で五穀が実らず飢饉が発生している。朝廷は無利息で稲を貸し付けたり、救済物資を与えたり、大学生など修業中の者に食糧を与えたりしている。そういう中、天平5(733)旧暦夏四月三日に第9次遣唐船4隻が難波の津から進発している。遣唐船団4隻に乗った人数は船長ら船舶職員・水夫(水手(かこ)という漕ぎ手)を含め総勢594人であった。

この遣唐船は帰還の途中遭難し、天平6(734)旧暦十一月二十日遣唐大使多治比真人広成(ひろなり)らが多禰嶋(たねのしま)(種子島)に帰りついた。遣唐大使多治比真人広成は翌年天平7(735)旧暦三月十日帰朝して節刀を返上している。

その天平7年旧暦八月二日に太白(たいはく)(金星)と辰星(しんせい)(水星)が大接近し、八月大宰府管内で瘡(そう)のできる疫病が大流行を始め、畿内にも及び3年間猛威を振るっている。これは天然痘であろう。感染源は来朝新羅人か日本からの遣新羅使が持ち帰ったか、唐から帰朝した遣唐使である可能性がある。この天然痘の流行で多くの人民が死に、藤原四兄弟や諸官司の官人らが相次いで死亡している。

天平7年の秋から9年の暮にかけて、聖武天皇と朝廷は非常に大きな国難に立ち向かっていたのである。この国難は100年前の天智天皇の御世の百済回復・朝鮮半島南部での日本の権益維持の失敗(白村江でのシナ・新羅連合軍との戦いに負けたこと)と百済王族・貴族を含む大量避難民の受け入れ、その後の国境防衛強化という国難に続くものであった。
以下『続日本紀』(講談社学術文庫)から“”で引用する。

 “天平九年(七三七)十二月二十七日 (前略)・・この年の春、瘡ある疫病が大流行し、はじめ筑紫から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿以下、天下の人民の相ついで死亡するものが、数えきれない程であった。このようなことは近来このかたまだかつてなかったことである。”

“天平六年(七三四)四月七日 大きな地震があって天下の人々の家が壊れた。圧死した者も多かった。山が崩れ川がふさがり、地割れが方々におこり、その箇所は数えきれない程であった。”

 “四月十二日 使者を畿内七道の諸国に遣わして、地震で被害をうけた神社を調査させた。”

 “四月十七日 次のように詔した。
 今月七日の地震は普通ではなかった。恐らくは山陵(みささぎ)に被害を与えているであろう。諸王や真人の姓(かばね)をもつ者に、土師(はじ)宿禰(工事に通じている)の一人を加えて、天皇陵八ヵ所(身近な年代の天皇陵八ヵ所であろうか)と、功のあった王の墓を調査させた。

 また次のように詔した。
 地震の災害は恐らく政治に欠けたところがあったことによるものであろう。そこで諸官司はその職務をよく勤め治めるよう。今後もし改め励まなかったら、その状況に応じて官位を下すことであろう。”

 “四月二十一日 使者を京(みやこ)および畿内に遣わして、人々のなやみ苦しむところを問わせた。

 天皇は次のように詔した。
 このごろの天地の災難は異常である。思うにこれは朕が人民をいつくしみ育てる徳化において、欠けたところがあったのであろう。このため今、特に使者を遣わして、汝らのなやみ苦しむところを問わせる。よろしく朕の心をよく理解するように。”