2012年6月3日日曜日


聖武天皇(19)「帰国途中の第9次遣唐船団遭難とその後のいきさつ」(30120603)

 天平五年(752)唐に入国し、翌年使命を終えて帰国の途に就いた第9次遣唐使船団は、唐の蘇州(長江河口南側、上海に近い)の港を出発後暴風雨に遭い、4隻の船がお互い見失い、遣唐使の一員である判官の平群朝臣広成(遣唐大使多治比真人広成とは別人)らが乗った船の115人はインドシナ半島メコン川下流地域の崑崙(こんろん)国に漂着した。その地で賊兵に捕虜にされたり殺されたり、マラリヤに罹って死んだり、乗組員が逃亡したりして、広成ら4人だけ生き残った。広成らは崑崙王に謁見し、食糧など与えられて唐の欽洲(ベトナムとの国境に近い)に留められた。広成らは唐に帰順した崑崙人の手引きで脱出し、唐の都長安(今の西安)で先の第8次遣唐使船で入唐していた留学生の阿倍仲麻呂のとりなしで唐の朝廷の支援を得て渤海経由で日本に帰ることができた。日本との外交関係が悪くなっていた新羅経由を避けたのである。

このルートは寒冷化という気候変動で南下してきたシナ(漢族)の圧迫を逃れ、紀元前400年から紀元後100年の間に雲南省滇池のほとりで繫栄していた滇王国建設と前後して長江河口から北回り朝鮮半島経由で日本にやってきた渡来系弥生人が辿ったルートに近い。そのいきさつを『続日本紀』から“”で引用する。
 
“天平十一年(七三九) 十月二十七日 入唐使(につとうし)の判官(じょう)・外従五位下の平群(へぐり)朝臣広成(ひろなり)と、渤海からの使節たちが入京した。”
 
“十一月三日 平群朝臣広成が朝廷を拝した。広成ははじめ天平五年に大使多治比真人広成にしたがって入唐した。六年十月に使命をおえて帰国する時、四つの船が同時に蘇州を出発し、海に乗り入れた。ところが悪風が突然に起こり、四隻の船はお互いに見失ってしまった。広成の乗った船の百十五人は崑崙(こんろん)国に漂着した。そこに賊兵が来て包囲し、ついに虜(とりこ)にされてしまった。船員は殺される者もあり、逃亡するものもあり、残った者のうち九十人あまりは瘴(しょう)(マラリヤか)にかかり死亡した。広成ら四人だけがやっと死を免れ、崑崙王に謁見することができた。そしてどうにか僅かな食糧を与えられ、よくない場所にかこわれた。

 天平七年になり、唐国の欽洲(きんしゅう)に留められていた時、唐に帰順した崑崙人がやってきた。そこで彼らにこっそり助け出され、船に乗せられて脱出し唐国に帰ってきた。そして日本の留学生の阿倍仲満(あべのなかまろ)に会い、そのとりなしで上奏して、唐の朝廷に参入することができた。渤海経由の路を通って日本に帰ることを請願した。天子はこれを許し、船と食糧を支給して出発させた。十一年三月に登州(山東半島北部の都市)より海に出て、五月に渤海の境域に到着した。

 たまたま渤海王大欽茂(だいきんも)が使いを派遣し、わが朝廷をおとずれようとしているのに会ったので、すぐその使節に同行して出発した。荒れた海を渡る途中で、渤海の船の一隻が波にのまれて転覆し、大使の胥要徳(しょようとく)ら四十人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽国に到着した。