2012年6月25日月曜日


万葉集に学ぶ「我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に ・・」(20120625)

 天武天皇の皇子である大津皇子は、天武天皇崩御後謀反の罪で処刑された。妃の山辺皇女は髪を振り乱して裸足でその場に「奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ」とある。歴史書などにはこれは、天武天皇の皇太子となった自分の子・草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)を天皇にしたいため、持統天皇側が仕掛けたものであると、まことしやかに書いてあるものが。そのような見方をする人たちの中には、もしかして、その深層心理として藤原氏に対する妬みや反感が全くないだろうか?

 大津皇子の妃となった山辺皇女の母・常陸娘の父は蘇我赤兄である。大津皇子は天武天皇の皇子であり、山辺皇女は天智天皇の皇女であるが、両者とも蘇我の血を色濃く引いている。一方、天武天皇の皇太子・草壁皇子尊(後の第四二代文武天皇)の夫人(ぶにん)(皇族以外の出自の妻を‘夫人’と言った)は藤原朝臣宮子娘(ふじわらのあそんみやこのいらつめ)(不比等の娘、聖武天皇の母)である。

 大津皇子の謀反は、国家転覆を図る目には見えない何かの力が作用していたのかもしれない。後に釈放されたが、『日本書紀』天武天皇崩御の年(686)冬十月(ふゆかむなづき)の条に新羅の金姓の「新羅沙門行心(しらぎのほうふしこうじむ)、皇子大津謀反(みかどかたぶ)けむとするに与(くみ)せれども、朕(われ)加法(つみ)するに忍(しの)びず。飛騨国(ひだくに)の伽藍(てら)に徏(うつ)せ」とのたまい、その新羅僧は釈放されている。

 その翌年三月十五日、日本に帰化していた高麗人56人を常陸国に居住させ(居(はべ)らしむ)、耕作田を与え生活を安定させ(田賦(たたま)ひ稟受(かてたま)ひて、生業を安からしむ)、さらに二十二日、帰化している新羅人14人を下野野国に居住させ同様にし、また夏四月十日に帰化している新羅の僧尼及び百姓(たみ)の男女22人を武蔵国に居住させ同様にしたという記事がある。

 大津皇子は容姿端麗・言辞優れ・才能あり・学問に熱心で・文筆を愛す24歳の青年であったので、帰化人たちの処遇について一見識あり、帰化人たちから期待されていたのかもしれない。また妻の山辺皇女も才色兼備で帰化人たちとの接点があったのかもしれない。そのことが不安になり、大津皇子は密かに姉がいる伊勢神宮に出かけたのかもしれない。

 岩波文庫『日本書紀』の天智七年二月(きさらぎ)の条に「蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおおきみ)の女(むすめ)(あ)り、常陸娘(ひたちのいらつめ)と日(い)ふ。山辺皇女(やまへのひめみこ)を生めり」とある。その山辺皇女の父は天智天皇であり、母は蘇我赤兄の娘・常陸娘である。なお、蘇我赤兄は蘇我馬子の子である雄当(雄正子)の子である。蘇我入鹿は蘇我馬子の長男・蝦夷の子である。従い赤兄は入鹿の従兄弟である。

 一方、天智天皇の妃となった遠智娘(をちのいらつめ)の父・蘇我倉山田石川麻呂も入鹿の従兄弟であるが心正しい人であった。皇太子・中大兄皇子が全幅の信頼を置いた中臣鎌子(後の藤原鎌足)らに勧められて、皇太子は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのまろ)の長女・遠智娘(をちのいらつめ)を妃にしている。

 その蘇我倉山田石川麻呂は、異母弟・蘇我臣日向(そがのおみひむか)の讒言で自害し、妻子など8人が殉死した。そのことを聞いて蘇我倉山田石川麻呂の娘であり、中大兄皇子の妃であった遠智娘は傷心のあまり自殺してしまった。中大兄皇子は妻の死に心を傷め、痛く哀泣された。

 その遠智娘に二人の娘あり、二人とも中大兄皇子の同母弟・天武天皇の妃となった。妹・鸕野皇女(うののひめみこ)は後に皇后となり天武天皇崩御後即位された。これが第四一代持統天皇である。一方、姉・大田皇女(おおたのひめみこ)は、悲劇の姉弟・大伯皇女(おほくひめみこ)と大津皇子(おほつのみこ)の母である。

 大伯皇女も大津皇子も蘇我氏の血を引いているがこちらは蘇我倉山田石川麻呂の血を引き、大津皇子の妃の山辺皇女の方は蘇我赤兄の血を引いている。

 万葉集に大津皇子の姉・大伯皇女の歌が出ている。

 大津皇子(おほつのみこ)、竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に大伯皇女(おほくひめみこ)の作らす歌二首
一〇五 我が背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁露(あかときつゆに 我が立ち濡れし
一〇六 二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

  大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女(おほくひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上がる時に作らす歌二首
一六三 かむかぜの 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
一六四 見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲らしに

 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
一六五 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろど)と我が見む