2012年6月27日水曜日


万葉集に学ぶ「楽浪の 滋賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ」(20120627)

第三八代天智天皇そして大友皇子(諡されて「第三九代弘文天皇」)の朝廷があった近江は、壬申の乱後荒れた野になった。その状況を柿本人麻呂が詠っている。万葉集巻第一に「近江の荒れたる都に過(よぎ)る時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作れる歌」と題して二九番、三〇番、三一番に、

たまだすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりのみ代ゆ 或いは云ふ「宮ゆ」 生(あ)れましし 神のことごと つかがきの いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 或いは云ふ「めしける」 そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え 或いは云ふ「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」 いかさまに 思ほしめせか 或いは云ふ「思ほしめけか」 あまざかる 鄙(ひな)にはあれどいはばしる 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる 或いは云ふ「霞立ち 春日か霧れる 夏草か しげくなりぬる」 ももしきの 大宮所 見れば悲しも 或いは云ふ「見ればさぶしも」

    反歌
三〇 楽浪(ささなみ)の 滋賀の唐崎(からさき) 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ
三一 楽浪の 滋賀の 一に云ふ「比良の」 大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも 一に云ふ「逢はむと思へや」

天智天皇が病に臥していたとき大友皇子は太政大臣になった。天智天皇の皇太子であった大海人皇子は兄・天智天皇が崩御される前、天智天皇の皇后・倭姫王を次の天皇にし、大友皇子を太政大臣として「諸政(もろもろのまつりごと)を奉宣(のたま)はしむ。臣(やつかれ)は請願(こ)ふ、天皇の奉為(おほみため)に、出家(いへでして脩道(おこなひ)せむ」と申し出、許されて天皇から袈裟など賜い吉野に下っている。その大友皇子の妃は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女である。

天智天皇崩御後、左大臣・蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ、右大臣・中臣連金なかとみのむらじかね)、大納言・巨勢臣比等(こぜのおみひと)以下群臣が大海人皇子不在間朝廷を建て、近江朝廷とした。其処に渡来人たちの影響がなかったかどうか? 大友皇子は側近の進言や渡来人たちが重要な役職を担っていた実務官僚の影響もあって「天皇」に祭り上げられたのではないかと考えられる。

出家していた大海人皇子は出家前から近江朝廷の動静に注意を払っていたのでないかと考えられる。大海人皇子は吉野に下るとき妃・菟野皇女らを伴っている。天智天皇崩御後、近江朝廷(大友皇子側)は天智天皇の山稜を造ると称して兵を集め、大海人皇子出家先に京から物資を送る要路・菟道(うじ(宇治))に見張りを立てその運搬を遮る行為に出た。事は大海人皇子が洞察していたとおりであった。ここに壬申の乱が勃発した。

古来天皇の親衛隊である大伴氏・佐伯氏らは初めから大海人皇子に従っていた。大海人皇子は天智天皇崩御後も近江朝廷側に残っていた高市皇子(たけちのみこ)・大津皇子(おほつのみこ)等を密かに脱出させ父・大海人皇子の下にはせ参じさせた。山部王は脱出を試みたが察知されて近江朝廷側に殺害された。

結局左右大臣・大納言らは逃げ大友皇子は丸裸同然となり、自殺した。ここに近江朝廷は倒れ、大海人皇子が国の政治を司ることになった。乱の後、近江朝廷側についていた右大臣・中臣連金だけ処刑され、他は配流された。中臣連金は藤原鎌足の従兄弟である。中臣連金は朝廷に取り入って権力を手にしたいと考えていたのかもしれない。

十市皇女は、夫・大友皇子が自殺に追いやられた乱の後、父・大海人皇子(天武天皇)のもとに帰った。なお、十市皇女は近江朝廷側の動きを吉野に居た大海人皇子に通報していたとう説もある。