万葉集に学ぶ「葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」(20120608)
万葉集巻十三。柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の歌集の歌に日く
三二五三 葦原(あしはら)の 水穂(みずほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 然(しか)れども 言挙げぞ我がする 言幸(ことさき)く ま幸くませと つつみなく 幸くいませば ありそ浪み ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重浪(ちへなみ)にしき 言挙げす我は 言挙げす我は
反歌
三二五四 しきしまの 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
「葦原の水穂の国」とは、日本の古名である。これは「葦原の中にある五穀豊穣の国」という意味である。日本民族は元々稲作・漁撈の民であり、人々は平和に暮らしていた民であったのである。その稲作の米の種類はジャポニカ種であり、その起源は長江中流域である。気候変動で南下してきた北方の漢族(シナ人)の圧迫を受け、長江中下流域の民が稲作・漁撈技術もって日本列島にやってきて、主として狩猟や木の実採取で食べていた縄文人と交流し、混血し、今の日本人の原型となったと考えられる。
『三國志・魏書巻三〇 東夷傳・倭人(魏志倭人傳)』に書かれていることが正しいとすれば、その書物には「竹木・叢林多く、三千許(ばかり)の家有り。差(やや)田地有り、田を耕せども猶食するに足らず」「末盧國に至る。四千餘戸有り。山海に濱(そ)うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ふく)(あわび)を捕え、水深浅と無く、皆沈没して之を取る」「國の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗竊せず、諍訟少なし」とある。
その当時(西暦220~265年の魏の時代、日本では弥生式文化の時代)、北九州ではまだ十分な米を得ることができず、海岸地帯ではアワビなど取って食べていたことが想像される。一夫多妻であったが人々の暮らしぶりは平和であったようである。柿本人麻呂の歌にあるように、時代が下がって奈良時代になると稲作も発達して食べるに十分な穀物が得られていたのであろうと思われる。