2012年6月11日月曜日


万葉集に学ぶ「大伴君熊凝は、肥後国益城の人なり。年十八にして、」(20120611)

大伴君熊凝(おほとものきみくまごり)の歌二首 大典麻田陽春(あさだのやす)の作
八八四 国遠き 道の長手(ながて)を おほほしく 今日や過ぎなむ 言問ひもなく
八八五 あさつゆの 消やすき我が身 他国(ひとくに)に 過ぎかてむかも 親の目を欲(ほ) 
  
    
 熊凝のためにその志を延ぶる歌に敬(つつし)みて和する六首 幷に序
                                筑前国守山上憶良

 大伴大伴君熊凝は、肥後益城(ましき)郡の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日を以て、相模使某国司(すまひのつかひそれのくにのつかさ)官位姓名の従人となり、京都(みやこ)に参ゐ向かふ。天に幸あらず、道に在(あ)りて疾(やまひ)を獲(え)、即ち安芸国佐伯郡高庭(たかには)の駅家(はゆまうまや)にて身故(みまか)りぬ。終りに臨む時に、長嘆(なげか)息いて日く、「伝へ聞く、仮合(けがふ)の身は滅易く、泡沫の命は駐(とど)め難しと。所以(このゆえ)に、千聖も已(すで)に去り、百賢も留(とど)まらず、況(いはむ)や凡愚(ぼんぐ)の微(いや)しき者、いかにしてか能(よ)く逃(まぬが)れ避(さ)らむ。ただ我が老いたる親、並(とも)に庵室(あんしつ)に在(いま)す。我を待ちて日を過ぐさず、自(おのづか)らに心を傷(やぶ)る恨みあらむ。我を望みて時に違(たが)はば、必ず明(ひかり)を喪(うしな)ふ涙を致さむ。哀しきかも我が父、痛(たへかた)きかも我が母。一身の死に向かふ途を患(うれ)へずただ二親の生(よ)に在(いま)す苦しびを悲しぶるのみ。今日長(とこしなへ)に別れなば、何(いづれ)れの世にか覲(まみ)ゆること得む」と。乃(すなわ)ち歌六首を作りて死ぬ。その歌に日く。

八八六、八八八省略
八八七 たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 我が別(わか)るらむ
八八九 家にありて 母が取り見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも 一に云ふ「後(のち)は死ぬとも」
八九〇 出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と 我を待たすらむ 父母らはも 一に云ふ「母が哀しき」
八九一 一世(ひとよ)には 二度(ふたたび)見えぬ 父母を 置きてや長く 我が別れれなむ 一に云ふ「相別れなむ」

 天平三年は聖武天皇の御世、西暦で726年である。今からおよそ1300年前である。いつの時代も慈しみ合う親子の情愛は変わらない。憶良も人の子の親であった。この歌は憶良がの気持ちを忖度して作ったものである。或いは自分が若かった時のことを思い、大伴君熊凝に共感を覚えたのであろう。

第九次遣唐使で帰国の途次命を失った水手(漕ぎ手)たちは、出発前は保存食である干飯を支給されて大海原に出て、自分が頑張ることによって自分の親の暮らしを支えたいと思っていたことであろう。大東亜解放戦争で愛しい我が子を戦地に送った母、戦地に向かう息子の気持ちは如何ばかりであったことだろうか?我が妻も私や息子たちをそれぞれ仕事や留学や遊学で成田から送ったとき、「これが今生の別れかも知れない」と思ったそうである。

人はこのようにして哀しみを共有しながら、それぞれの人生を送っているのである。故に人は一期一会の心で、一日を一生として悔いのないように一生懸命に生き、死ぬるときは一所懸命に死ぬるという態度が大事である。