2009年8月31日月曜日

至善(20090831)

予想通り今回の選挙で自民党は大敗した。男の周りの人たちも「今回は自民党にお灸をすえる」と言っていた。それでも男も女房も自民党を応援した。理由は、民主党の政策実現に疑問を抱いているからであり、安全保障政策や外交に不安があるからである。民主党は大勝したので4年間は続くだろう。その間、政官業の癒着構造を改めてくれるだろう。民主党内には労組、日教組につながりをもっている党員も多いと思うが、今回の国民の選択には「自民党にお灸」という意味もあるので、それらにつながりをもっている議員の影響は抑えられるであろう。男はそのことに期待している。

さて、選挙は終わった。男はサークルなどで詩吟を教えているので来年教える詩吟のテキストを作成している。その中で、1月に西行の『至善』を教える。その詩文は簡単なようで、なかなか奥が深いものであると思う。詩文は「晴れに非ず 雨に非ず 睡蓮の天 山に非ず 林に非ず 在家の仙 一日を一生として興究まり無し 老楽は唯 至善を行うに在り」である。男は、昔詩吟を習った時、「在家」の「ざいか」と教えられていた。しかしこれは「ざいけ」と読むべきであると思う。なぜなら男は、この詩文は仏教の悟りへの道を教えているように思うからである。「ざいか」は単に「田舎の家」のことであり、「ざいけ」は「出家していない人、世俗の人」のことである。男は「至善」は「他人に迷惑をかけないように、あるがままに暮らす」と教えられていた。これも間違っていると思う。何故なら人は他人に迷惑をかけずに生きることは決してできない。しかし、最も善いと考えることを行うようにすることはできるからである。

男は、この詩には禅問答があると思っている。起句と承句の意味は「池の睡蓮は、天候に関係なく時期がくれば咲いている。自分は在家の身でありながら、山中林野に住み不老不死の術を心得ているよう仙人のようである。」と理解する。転句の「一日を一生として興究まり無し」の部分は、仏教の教えるとおり、「明日白骨になるかもしれないわが身は、生老病死の四苦から絶対に逃れることはできず、怨みや憎みに会う苦、愛する人と別離する苦、求めることが得られない苦、要するに生きている間中苦から逃れることはできず、逃れようとして求める一時的快楽も結局は苦を作る身である。そのように達観すれば、今この時生きている自分の日々は面白おかしいことばかりである。」という意味に解釈できると考える。結句は、「老人の楽しみは、唯一つ、自分が最も善いと信じることを、行うことであり、自分はその楽しみの中にある。」と言う意味であると解釈する。

ちなみに、西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた武士であり、僧侶であり、歌人であった。西行は『続古今和歌集』に「ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比(ころ)」という歌を遺し、その歌のとおり、陰暦の216日、新暦48日ごろ、桜の花の時期に73歳で没したと言う。

男は仏教の勉強をしている。自分の最期に向けて毎日「死に支度」をしている。わが肉体は朽ちるが精神は不老不死のつもりである。もとより男は資産家ではなく、かといって日々食うに困るわけでもない。贅沢なものは好まず、持たず、名誉や社会的地位も欲せず、この年になってまで金や名誉や地位を求めて苦労を背負いたいとも思わず、またそのような人物的能力も持っていない。そういう意味では男は「在家の仙人」かもしれない。男は自分がそうしていられるのは、観音菩薩のような女房のお蔭であると思って感謝している。