2009年8月26日水曜日

日本列島の大王たち(20090826)

 上記タイトルは、古田武彦著の本(朝日文庫)の題名である。男は今日陶芸を楽しむ日であるので、行き帰りの電車やバスの中でこの本を読んだ。

 読むうちに男が前々から関心があった日本人のルーツについて書かれている本、安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』のことが頭によぎった。吉田武彦は、天皇家のルーツ・神武天皇は古事記にあるとおり日向(宮崎県)を出発し、宇佐(大分県)に立ち寄り、そこで宇佐の土地の有力者の厚遇を得、その後筑紫(福岡県)の岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋)に詣でた後、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を経、淡路島と四国の海峡を経て難波(大阪)の地に入ろうとしたが戦闘に破れ、熊野(和歌山県)を迂回して大和(奈良)に入った、としている。しかし、銅鐸の分布の関係から、天皇家のルーツは北九州地方の大王の分家であるとしている。

 天皇家のルーツ(初代は神武天皇)は海路を辿って畿内地方に入り、崇神天皇の代にその土地の大王たちを支配下において大和政権を確立する祖となったようである。崇神天皇は、越(富山県、福井県、新潟県)などに軍を派遣し、大阪・奈良を中心とし日本海側および太平洋側までの一帯を支配下においたという。この地方には吉田武彦が引用した『漢書・地理志』によれば東鯷人が住んでいて、3世紀、遅くとも中国の三国時代の呉朝末までに、銅鐸とともに記録上、その存在を絶ったという。それまで鯷人は中国の呉朝と交流していたという。

 その越には、安田喜憲によれば、古代中国の長江中流域の文明が伝わっている考古学的な痕跡があるという。長江中流域の文明は、先ず笠沙(鹿児島県南さつま市笠沙町)を経て、西日本全域、出雲(島根県)、淀江(島根県米子市)などに伝わったという。その笠沙は、古事記によれば、ニニギノミコトが日向の高千穂の嶺に下って、詔して「この地は韓国に向かい、笠沙の岬を通って朝日がさす国、夕日の照る国で、甚だ良い国である」と申されたと言う土地の名前である。

 男は、吉田武彦が九州の大王の分家であるとする天皇家のルーツは、安田喜憲による古代中国の長江中流域の文明と深い関係があって、長江中流域の民の大型建築、造船、航海、稲作などの文明力をもって畿内地方をその勢力下に置くことができたのではないかと思う。わが国が伊能忠敬によりヨーロッパ人が驚いたほど正確な地図を作り、和算術を編み出し、明治維新後は非常に急速にわが国を当時の列強諸国に負けない強い国に仕上げ、戦艦大和や零戦を作ることができたのは何故か。男は、日本人の血の中に、黄河文明よりも千年も古いことが分かった長江文明を身につけた民が、紀元前後戦乱を逃れて沖縄島伝いに九州南部に辿りついた人々の遺伝子があるのだと思う。

 さらに、朝鮮半島を支配していた中国の後漢が3世紀に滅亡した前後、やはり戦乱を逃れた当時の文明人たちが、日本書紀の記述だけでも何万人という規模でわが国に渡来してきており、7世紀、倭国(当時の日本)が百済を救おうとして白村江で大敗したときも百済から王族・貴族など知識や技術の高い人たちが、日本書紀の記述だけでも何千人という規模でわが国に渡来してきている。

 1世代25年、一家族夫婦と子供2人として1000年も経てば子孫は計算上1兆人となるので、今の日本人の血の中にはそれら渡来人たちの血も天皇の血も含まれていることになるのだ。男は日本人はこのことを知って、心の中心を見失わぬようにしなければならないと思う。