2009年10月1日木曜日

前世、今生、来世(20091001)

 陶芸をしにゆく電車の中で男は『夢窓国師 夢中問答集』(講談社学術文庫)を読んだ。この本の中で良く出てくる言葉は「今生」とか「前世」とか「来世」とかいう言葉である。この本の裏表紙に夢窓国師について「鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた夢窓国師はまた、禅を基調とする日本文化の創始者であった。足利尊氏の弟直義の問いに答えて、信心の基本から要諦を語り、自然観、庭園観を語り、その無自在の禅者の声が『夢中問答』から聞こえて来る」と書かれている。この直義の夢窓国師に対する質問と夢窓国師の直義に対する回答は、速記的に記録されたようである。昔の指導者は若い時代に土地の学僧から仏教を学び、長じて夢窓国師のような賢者から教えを受けていたのだ。これは幕末のころまでそういう文化があったようである。つまり明治のころまでの指導者は高い教養を身につけていたのだ。

 男は人間は意識を伸長させようとすれば遠い過去から遠未来まで意識を伸ばして世界を観ることができると考える。そこには空想が働くが、空想と言ってもただの無意味な空想ではなく、仏教について学んできたことに基づく空想である。それは信心である。学僧は初め何も分からずひたすら仏教を学ぶのだろう。その内仏教のことがいろいろ分かってくると仏教への帰依が快いと感じるようになるのだろう。男は座禅をしたことがないが、多分仏教のことが少し分かり、座禅をすれば、さらに分かるようになり、至福感が得られるようになるのだと思う。男はまだそのような至福感を知らない。

 男はまだまだ初心者であるから、ただ直感的に自分の「前世」と「来世」を観るのである。男は女房とは「前世」からの「縁」があったと観る。それは男の子供の時の写真や女房の子供の時の写真を拡大して、意識を過去に遡らせると空想の中に観えてくのである。この空想は、「今生」の過去に意識を遡らせ、子供のころや若いころ大人たちからいろいろ聞かされていたことなどさまざまな情報、記憶の深層に蓄積されている情報、それは言葉ではよく表現することができない情報を元にした空想である。

 男もかつてそうであったが、現役時代はこのような悠長なことをしてはいられない。日々あくせく暮らすだけであった。男の息子たちも同様であろう。現代人は知識の入手や吸収は簡単である。しかし、教養を身につけることはなかなか難しい状況に置かれている。

 男がこのブログを書き続けるのは、そのような状況に置かれている息子たちに、少しでも親父の言っていることに耳を貸して貰うためである。男は息子たちにたまにある日書いた特別な内容のブログに目を通すよう要求している。この要求を息子たちは決して無視していない。たまにレスポンスがある。それで良いのだ。

 夢窓国師はこの問答集の中で「人界(にんがい)に生(しょう)を受くる人、貴賎異なりと云ふとも皆これ前世(ぜんせ)の五戒十善の薫力なり」と、「あまりに善根に心を傾けたる故に、政道の害になりて、世も治まりやらぬよしを申す人あり。その謂(いは)れありや。」という問いの答えの中で述べている。

 知識ばかり豊富に身につけるのは良いが、その知識の誤った見解のため、「前世」や「来世」を全く信じない人は、決して幸せにはならないと男は固く信じている。日本には夢窓国師のようなお方が居た。中国で弾圧され、失ってしまったものは、中国の高僧が日本に渡来してきて日本で広まった。明治の頃まではその文化の影響が濃かったのだ。