2010年9月18日土曜日

母・ともゑ (20100918)


  信直がコピーして送ってくれた写真には信直が母・ともゑに抱かれて微笑んでいる写真がある。ともゑは信輔と信直の二人の子供を授かり人生で最も幸せな時期を送っていた。その頃のことになると信輔の記憶も確かなものになっている。ある日ともゑは夫・一臣との間に何かいさかいがあって家を飛び出したことがあった。家を飛び出したものの感情が収まって直に戻ってきている。それは大邱(テグ)に住んでいた頃のことであった。

  大邱の家には大邱に部隊があった陸軍の将校が一人、ホームステイで泊ったことがあった。その将校は日本刀を抜いて電灯の下にかざし、一臣となにやら会話を交わしていたが、信輔はその将校が無口な男で、一臣は接待に苦労しているように見えた。

  その頃家に須美子は居なかった。須美子は大邱高等女学校2年生のとき転入試験を受けて別府高等女学校に転校している。ともゑは須美子が初めから別府女学校を受験しなかったことについて須美子を叱っていたという。須美子は別府高等女学校の入学試験に受かる自信がなかったので受験しなかったと述懐している。

  昭和16年(1941年)3月、一臣は慶尚北道の永川南部公立尋常小学校勤務となった。尋常小学校という校名は翌月、公立国民学校という呼び方になった。翌17年(1942年)、一臣は永川公立青年訓導所の指導員を嘱託された。

  一臣は永川の官舎に朝鮮人の女学生たちを多数招待し、日常の生活に関することを実地に指導していた。ともゑは茶や菓子を出して彼女たちを楽しませながら、夫の仕事を手伝っていた。

  ちなみに信輔の妻・幸代が子供のころ、大家族のなかで一番末の妹のように扱われていたが、幸代の母方の祖父・要造は食事のとき必ず子供たちに箸の上げ下げの作法のことまで細かく指導していたという。幸代にとって齢があまり離れていない‘叔父・叔母’たちが玄関を上がる時履物を無造作に脱ぎ放しにしていると、「こらッ!照子ッ!」などとよく叱っていたという。今の時代、そのような厳しい躾をする親は極めて少なくなっている。

  昭和19年(1944年)5月、日本が徐々に敗戦に傾きつつある頃、一臣は慶尚北道公立国民学校長兼柳川国民学校長兼柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託され、非常に多忙になったが非常に張り切っていた。

  その年の11月、一臣は一家を引き連れて弟・幸雄の祝言のため一時、又四郎の家に帰ってきている。祝言は又四郎の家で行われた。座敷にお膳が並べられ、祝言を上げた後戦地に往く弟、つまり信輔の父方の叔父の結婚を祝った。その時の集合写真がある。それは信直がコピーして送ってくれたものである。その写真に一臣一家5人も写っている。ともゑは1歳の富久子を抱いている。一臣は父・又四郎の横でちょび髭を生やして写っている。

  実は一臣が師範学校を出て初赴任した学校で校長が髭を生やしているのを見て、一臣はその校長に面と向かって「髭を剃れ」と言ったという。そのことが、一臣の師範学校の同級生の弔辞の中に書かれている。当の本人が校長になって同じことをしたのである。その時一臣は35歳、若いのに偉くなったので、威厳を作る必要があったのであろう。

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