2010年9月13日月曜日

母・ともゑ (20100913)


  ともゑは線香に火を付け両手を会わせながら「お父さんを呼んできておくれ」と言った。信輔は裏の山に枯れた松葉など落ち葉を掻き集めに行っていた父親の一臣を呼びに行くため走った。子供ながら母親の異変に気付いていた。信輔は息せき切って一臣に「お母さんが、お母さんが、お父さんを呼んできてと言っているよ」と告げた。

  一臣は作業を中断して急いで家に戻った。信輔も父親と一緒に走った。一臣がともゑの床に駆け付けたとき、ともゑは既に息を引き取った後だった。ともゑは信輔を父親のもとに走らせた後、東に向かって手を合わせそのまま倒れた。異変に気付いた義母、つまり信輔の祖母・シズエがともゑの傍にかけつけ、倒れたともゑを床に寝かせ、近所や親戚に急を知らせるように手配した。一臣と信輔が戻ってきたとき、ともゑの床の傍に祖父・又四郎や祖母・シズエや新宅のおかめお婆さんらがいた。一臣はともゑの姿をみて号泣した。

  信輔は母親が死んでしまったことを理解できずにいた。ただ呆然としているだけであった。信輔の祖父・又四郎の家に親族やともゑの妹、つまり信輔の叔母・須美子が駆けつけてきた。近所の人たちも集まってきた。皆、遺された信輔や信直やまだ幼かった富久子や赤子の哲郎を見て憐れんでいた。哲郎は乳飲み子であったが母親の乳房は無くなっていたので重湯で育てられていたのである。ともゑは三つになったばかりの富久子や自分のお乳を与えることができなかった赤子を遺し死んでゆかなければならない運命を悲しんでいたに違いない。しかし信輔は自分の母親が死んだのに人ごとのように振る舞っていた。

  葬式には信輔の同級生の母親である専想寺の脇寺の住職のご院家(いんげ)さんが来てお経をあげてくれた。ともゑは正座して両手を合わせた形で棺桶に入れられた。棺桶に入れるとき又四郎が「お経を上げればともゑの身体が柔らかになる」と言っていた。

  ともゑを入れた棺桶は叔父たちに担がれ、家の前方、約100メートル先の墓地に運ばれ、予め穴が掘られていたその中にそっと置かれ、土がかぶされた。その真中に一本の竹の筒が立てられ、その周りに大きめの石ころが沢山積み重ねられた。叔父たちは塩で手を清め、ともゑの葬式は終わった。翌年、2歳になった哲郎が母親の後を追うように死に、ともゑの墓の隣りに同様の墓が造られた。ともゑと哲郎の墓は長年その状態に置かれたままだった。

  ともゑの葬式の夜は凍るように寒かった。空には二つの星の間に三日月がかかっていた。信輔の祖母・シズエの甥にあたる丹生の小父さんは須美子と一緒に空を見上げている信輔に「あのように二つの星の間に三日月がかかっているのは不吉なしるしだ」と話していた。

  翌日から信輔は仏壇の前に座ってお経を上げるようになった。それは『正信念佛偈(しょうしんねんぶつげ)』というお経で、「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)」と唱え始めるお経である。信輔はいつの間にかこのお経の全文を暗唱して唱えることができるようになっていた。あるとき新宅の博小父さんが仏壇にお参りにきてくれて、信輔に「お経を一生懸命お経を上げちょれば、きっとお母さんに会えるけんの」と言ってくれたことがあった。信輔は「はい」と素直に答えて、また一生懸命お経を上げ続けていた。

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