2010年9月7日火曜日

東京裁判7(20100907)


 男は今朝母の夢を見た。その内容は忘れた。母は男が10歳のとき、終戦の翌年(昭和21年(1946年)の12月18日、乳がんで死んだ。男は「あの世」に行く前に、是非、母のことを中心に、できるだけ事実に基づき、事実がはっきりしないことは多少の想像も含めて、小説的に書き遺しておきたいと思った。それは一般に公開し、男の子や孫の世代、その先まで、男の母のことが語り継がれるようにしたいと思った。

 何故、そうしたいのか。男は命の永遠性を確信しているからである。現世に生きる男は、あと10年前後の間に、或いはもっと先に、「この世」を去り、「あの世」に逝く。男は「あの世」で母に会え、父に会え、祖父や祖母たちに会え、叔父や叔母たちに会えると確信している。皆、男が子供のころ、男を暖かく見守り、愛してくれた人たちである。

 男が子供のころ過ごした土地は昭和45年(1960年)ごろから鶴崎臨海工業地帯及び周辺の住宅地域として急激に都市化され、子供のころの田園風景は全く無くなってしまった。しかし、男が昭和28年(1953年)中学校を卒業したときの同級生たちは約3分の2、約200名が当時の鶴崎校区や大分県内に居住している。小学校・中学校を通じて友達、‘竹馬の友’であった人たちもその地に多く居住している。東京近辺に住んでいる竹馬の友も数人いる。皆、齢73歳になっている。

 今年の4月末、別府のパストラルホテルで同級生50数名が一泊して有志の同級会が開かれた。57年ぶり顔を合わせた同級生が多かった。かつての女子中学生たちも年老い、中には座椅子でないと座れなくなっていた人もいた。かつての男子中学生たちも皆老人になった。57年ぶりに会って、話しているうちにようやく往時の面影を思い出す状況であった。

 男は母の思い出を中心に小説を書き遺しておくことは、非常に大きな意味があると思った。女房にこのことを話したら、「また忙しい仕事ができましたね」と言われた。それはそうであるが、このような小説を書くと言うことは男の生き甲斐でもある。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 盧溝橋付近で起きた最初の発砲については、シナ(支那)軍の偶発的発砲とか、日本軍の自作自演説とか、中国共産党の陰謀説など諸説があったが、少なくとも実包をすべて封印して演習中の日本軍がはるかにかずの多いシナ軍を挑発して戦闘を誘発するような行為を仕掛ける理由は全くなかった。

 発砲は偶発的であり、その目的もわからなかった。その結果、小規模な戦闘が行われ、その間には停戦の折衝も行われた。しかし停戦協定はシナ軍によってすべて破られた。

 シナ軍による発砲事件が繰り返されるうちに、昭和12年(1937年)7月29日に北京の郊外にある通州で日本人200人以上が虐殺される事件が起きた。これを契機に日本軍とシナ軍との全面的な衝突へと発展していった。

 後日わかったことは、発砲事件は蒋介石の国民党軍に潜り込んでいた共産党員によるものであったことである。毛沢東の陰謀であったのである。そのことにつては明日続きを書く。