2010年9月17日金曜日

母・ともゑ (20100917)


    一臣、ともゑ、信輔、須美子一家4人は大邱で平穏な暮らしをしていた。別府の文造の家では貴金属の商いも順調に進み、後妻と二人だけで暫く平穏無事な生活が続いていた。しかし文造は以前から持病の腰を悪くしてしまい、店を続けて行くことが出来なくなってきた。そこで文造は店で使っていた人に貴金属販売の商権を譲り渡した。そして別府市内のちょっと大きめの木造2階建て住宅を借りてそこに転居した。

    それは昭和14年(1939年)のことで信輔が2歳半のとき、丁度年末年始の期間であった。その期間でないと朝鮮からともゑや須美子が引越しの手伝いに帰ってくることが出来なかったからである。引越しの手伝いに、当時満州の建設会社に勤めていた弟・業政も帰ってきた。業政は大邸に立ち寄り、初めて甥っ子・信輔に会った。ともゑはと業政と須美子ともに信輔と信直を連れてその転居先の2階屋に帰って来た。その時一臣は仕事の都合で帰っていない。

    年が明けた昭和15 年(1940 年)の正月、信輔は祖父・文造に手を引かれて街中を歩いたことがあった。それは信輔にとって母方の祖父と過ごした唯一の懐かしい記憶である。路地で円座になって遊んでいる女の子たちがいた。お正月ということもあって文造の家は賑やかであった。信輔は2階から階段を足を踏み外して転げ落ちた少女を見た記憶がある。

    3歳にはまだなっていない男の子の記憶としては強烈な印象のことしか残っていない筈である。記憶は大人たちとの会話を通じて増幅される。しかしそれも断片的なものである。信輔は母・ともゑから「おじちゃんと一緒にお散歩して楽しかったねえ」とか「何か面白いことを見ましたか?」とか言われて、印象深かったことを答えていたであろう。段々大きくなるにつれて自分を散歩に連れて行ってくれた人が誰であったか、印象深かった事象がどういうものであったか心の中でその時どきの状況が構築されてゆくものである。

    ともゑは別府に帰っていたときの出来事について息子・信輔と何度か会話を交わしていたに違いない。その年か翌年に祖父・文造が70で死に一家は皆葬式に帰っている筈であるが、信輔にはその記憶が全くない。写真でもあれば記憶が構築されるのであろうが、その写真もない。そこのところが不思議である。信輔には悲しい出来事は敢えて記憶しないという特性が、すでにその時から備わっていたのかもしれない。

    実は信輔が17歳になるときまで家族が写っているアルバムを自分の手元に置いていた。そのアルバムには信輔が覚えている母・ともゑの写真が何枚かあったが、信輔はどれも破って灰にしてしまっている。当時の信輔の心理としては自分の過去を総て消してしまってその時点から自分独りで未来だけに目を向けて人生を歩もうという思いがあった。今手元にある何枚かの母・ともゑが写っている写真は、信輔の要請を受けて弟・信直が所持している写真をコピーして送って来てくれたものである。

    ただ、信直が所持している写真は限られたものである。信輔が焼き捨ててしまったものは元々父・一臣が作成していたものであったから、祖父・文造が写っている貴重な写真もあったに違いない。今思えば真に馬鹿なことをしてしまったものだと信輔は後悔している。

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