2010年9月15日水曜日

母・ともゑ (20100915)


  ともゑは大正2年(1913年)、安田文造と妻・まさの長女として生まれた。文造の父、つまりともゑの祖父・幸人は熊本藩士で御船奉行をしていた。その妻、つまりともゑの祖母は岩といった。江戸時代から明治時代の初期にかけて女性の俗名は‘お’を付けて呼んでいたから、岩は‘お岩’である。‘お岩’と言えば四谷怪談に出てくる名前である。ちなみに、信輔の新宅の有馬家に信輔が子供のころ‘おかめ’お婆さんがいた。‘かめ’という名前に‘お’を付けて‘おかめ’という愛称で呼ばれていた。しかし信輔の父方の祖母は本名が‘マチ’で通称は‘シズエ’であった。現代ではそのように本名(仏式の俗名)と通称が異なる例は少なく、大概‘ちゃん’付けを通称としている。

  ともゑの祖父・幸人は武士であった。信輔はこれまでずっと思い続けてきたことがあり、これからも自分の最期の刹那まで思い続けるであろうことが一つある。それは、母・ともゑが33歳という短い生涯を終えるに当たり、息子・信輔に対して武士の生き方と死に方は如何にあるべきであるかということを、自らの身をもって示したのだということである。

  ともゑの祖父であり信輔の母方の曾祖父である幸人は、幕末のころ‘鶴崎番代’という熊本藩の飛び地の総責任者の下で、熊本藩の藩士として参勤交代の船団の船の警備などを担当していた。鶴崎番代は1年交代であったが、幸人は鶴崎に何年も前から住んでいたと思う。ともゑの弟、つまり信輔の母方の叔父・業政は戦前満州の建設会社で働いていたが終戦でソ連に抑留された。その時安田家の系図を逸失してしまった。業政も他界してしまっている。このため、幸人が何年前から鶴崎に居住していたかということは分からない。

  鶴崎港には参勤交代で熊本藩主が乗る御座船・波奈之丸以下引船、御馬船、御荷船などの藩船など常時100隻余りの船で賑わっていた。幕末に勝海舟が坂本龍馬を伴って、鶴崎に立ち寄って一泊している。その時次の歌を作って遺している。「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき」。幸人は勝海舟や坂本龍馬に会ったことがあるかもしれない。

  幸人は明治維新後平民となり別府に移住している。平民となったとき相応の御下賜金があり、その金で貴金属を商うという‘武士の商法’を始めた。しかしその商売がうまく行っていたかどうかは分からない。本格的に貴金属販売店を経営したのは文造のときである。

   信輔の母方の祖父・文造は別府市内で店舗付きの平屋住宅を借りて貴金属類の商いをし、結構繁盛していた。信輔の母・ともゑは別府高等女学校に通学していた。そういう時、文造の妻、つまり信輔の母方の祖母・まさが病気で死んでしまった。一家の状況が変わった。

   ともゑは高等女学校を卒業すると直ぐ、まだ小学校に上がらない幼い妹・須美子を連れて親戚を頼って国東に行った。国東で親戚の家などを転々しながら職探しをいた。親戚もあまりいい顔はしなかった。そうこうするうちに運よくある小学校の代用教員になることができて親戚の家を出、幼い須美子を養いながら薄給で暮らしていた。

   一年ほど経って父・文造が再婚した。ともゑは須美子を連れて別府の父・文造の家に戻った。

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