2010年9月16日木曜日

母・ともゑ (20100916)


  文造が再婚したので、ともゑと須美子の国東での生活は1年間ほどで終わり、別府の家に戻った。須美子は継母に良く可愛がられていた。しかしともゑは継母との折り合いが悪かった。別府に戻ったともゑは自立して家を出たいと考えていた。ともゑは父・文造の仕事を手伝いながら代用教員の職を探していた。しかし別府ではなかなか代用教員の職は見つからなかった。教員の採用人事は別府市の視学の権限であった。須美子が高等女学校に上がる前に、姉・ともゑに見合いの話が持ち上がった。

  大分県の視学は県内の教員の状況を把握する責任があった。ともゑが国東の尋常小学校で代用教員として採用されたという情報は当然、県視学に把握されていた。視学は今の教育委員長のようなもので、学事の視察や教育の指導・監督を行ない、教員の人事にも関与する。当時の視学は岩尾という人でともゑの親戚筋の人だったので、ともゑの身上について深い関心があった。ともゑの状況を知り、何とかしてやらねばと考えていた。

  岩尾視学はともゑを誰かと結婚させ、生活を安定させてやろうと考えた。一臣が昭和3 年(1928年)に大分師範学校を出て玖珠郡の野上尋常高等小学校を皮切りに大分郡内の尋常高等小学校訓導としての勤務成績や大分県公立青年学級助教諭を兼務して実績を上げていることに目を付け、一臣の実家の家柄も悪くないことを知って、一臣がともゑの結婚相手としては申し分ないと判断した。そこでともゑを一臣に引き合わせることにした。

  見合いは貴金属店を営むともゑの父・文造の家で行われた。文造夫婦とともゑが支度を整えて待っているところに岩尾視学が一臣を伴ってやってきた。形通りの挨拶が交わされ、岩尾が一臣の人となりについて話した。文造は、一臣が実直で頭が良く、なかなか気骨のある男であり、将来必ず大成する人物でると見込んだ。須美子のことは自分の後妻が面倒を見てやれる。ともゑをこの男にやれば何の憂いもなくなると思った。縁談はトントン拍子に進んだ。一臣の両親、つまり信輔の祖父母・又四郎とシズエもともゑに会い、一臣の嫁としてともゑを迎え入れることに全く異存は無かった。

  ともゑと一臣の祝言は別府市内の料亭で行われた。そのとき須美子はどういうわけか独りで留守番をさせられた。須美子の話によれば、父・文造はもし須美子がその祝言の席に行けば多分面倒なことになると判断したのではないかと言う。

  昭和11年(1936年)春、一臣はともゑと所帯を持ち、翌12年5月長男・信輔が生れた。ともゑは信輔を産むとき一臣の家に滞在していた。ともゑの実母・まさが、ともゑが15のとき他界してしまっていたから初出産のときは不安であったが、9人もの子供を産んだ経験のある義母・シズエの温かい思いやりや手助けは非常に有難かった。

  その翌年昭和13年(1938年)、一臣は朝鮮慶尚北道に出向を命じられ一家は朝鮮に渡った。そのとき須美子も一緒に朝鮮に渡った。一臣は慶尚北道公立小学校訓導を命じられ、大邱(テグ)公立尋常小学校に勤務することになった。須美子は義兄・一臣と姉・ともゑのもとで大邱(テグ)高等女学校を受験して合格し、その学校に入学した。

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