2010年9月12日日曜日

母・ともゑ (20100912)


  鶴崎臨海工業地帯には製鉄会社、石油会社、石油化学コンビナ-トなど日本の基幹産業の工場が建設され、そこで働く従業員及び家族が鶴崎地方に流入して人口が急増し、かつてののどかな田園地帯は住宅地となって一変してしまった。信輔や洋介や芳郎ら別保小学校、鶴崎中学校が同級生である竹馬の友の故郷は、それぞれの記憶の中にしか存在しなくなった。特に、信輔や洋介や貞行ら東京近辺の都会地に住んでいる者たちにとって、故郷はとても懐かしいものである。貞行とは江藤貞行のことである。神奈川で建築関係の会社をやっていて座間に住みついている。皆同じ鶴崎中学校3年7組の同級生たちである。

  今から57年前の昭和28年(1953年)3月、大分市鶴崎町立中学校から377名の少年・少女たちが巣立ち、町内の普通高校や工業高校、大分商業高校などに進学した。県外の高校に進学した者もいたし高校に進学せず働きに出た者も多かった。

  今年4月、地元の同級生の呼びかけで有志50数名が別府で1泊2日の同級会があった。そのとき幹事から物故者50名がいることが報告され、懇親会に先立ち一同黙とうした。同級生は校区内には120余名、大分市内に80余名、県内に20余名残っており、残りは県外に住んでいる。東京近辺には男女半数づつ20名ほど住んでいる。皆、子供時代から少年少女時代を豊かな田園地帯で過ごしている。特に、県内に残った多くの同級生たちは二十歳代の前半ごろまで田園地帯で過ごしている。鶴崎中学校を昭和28年に卒業した377名の生徒たちのような経験をしている例は、全国的にみても珍しいのではないかと思う。



  信輔は自分の子供時代、少年時代、青年時代のことを回想している。その中で特に信輔が9歳の時、乳がんで死んだ母親の死に際のことをいつも思い出している。信輔の母親は死に際まで身をもって信輔に生き方と死に方を教えてくれていたのである。

  信輔の母・ともゑは義父・又四郎の家の居間の隣の四畳半の部屋で死の床に就いていた。両方の乳房は切り取られて無くなっていて、背中にはがんの転移のしこりが沢山できていた。相当苦痛を感じていた筈である。しかし、ともゑはその苦しみを信輔に見せることは一度もなかった。信輔が見ていないところでは苦痛に顔をゆがめ、泣いていた筈である。

  信輔は度々「お兄ちゃん」という声でともゑに呼ばれていた。信輔がともゑのところに行くと「起こしておくれ」とともゑが言うので信輔はともゑを抱きかかえるようにして起こしてやっていた。すると「背中をさすっておくれ」という。信輔がこぶだらけの背中をさすってやると「ありがとう」と言ってしばらく床から起きたままにしていた。信輔は母親・ともゑの苦しみを子供ながら分かっていたと思うが、痩せ細り一面こぶだらけになっている母親の背中を、無言でたださすってやるだけであった。そんなことが何度かあった。

  ある日、ともゑはいつものように「起こしておくれ」と言い、信輔がそのようにしてやると今度は「東に向けておくれ」と言う。その通りにしてやると、「御仏壇から御線香をもって来ておくれ」と言った。信輔は無言でそのとおりにしてやった。

0 件のコメント: