2010年9月20日月曜日

母・ともゑ (20100920)


    母子は家に帰る途中、松林の中に入り、おやつを食べるのが楽しみであった。信輔はおやつを食べながら学校での出来事や放課後玄観らと遊んだときの様子などをともゑに報告した。先生方は年長の玄観らに信輔のことをよく見守るように言ってあったに違いない。小学校1年生の男の子の汽車による通学については、駅長以下職員たちも信輔をよく見守るように手配されていたに違いない。天候が悪い日にはともゑは駅まで信輔を迎えに来ていた。そのような手厚い見守りがあって、1学期末までの短い期間ではあったが信輔は汽車通学を無事続けることができていた。ともゑは信輔を途中で出迎えるようにし、松林の中に入っておやつを広げ、わが子の成長の状況を観察していた。

    そんなある日、いつものようにおやつを広げて母子団らんのひと時を過ごしているとき、信輔の小さな腕に蟻が這い上がって噛みついたらしく、その腕に点々と水膨れのようなものができたことがあった。ともゑは「ああ、大丈夫、大丈夫」と言って何か膏薬のようなものを塗ってくれた。水ぶくれはいつの間にか治っていた。

    1学期が終わった日、信輔は汽車がまだ完全に停止しないうちにホームに飛び降り、転んで軽い怪我をしてしまった。多分信輔は鉄道の関係者がまだ動いている車両からホームに降りる様子を見ていて真似しようと思ったに違いない。駅長は慌てて一臣に電話を入れた。怪我は大したはことなく、膝に擦り傷ができただけであった。

    信輔のそのような冒険心は信輔がまだ4歳のときに発揮されていた。大邸に住んでいたころ、信輔は道路わきの自分の背丈よりもかなり高い場所にあった石垣の上に建っている塀の下の狭い場所を、両手を広げて塀を抑えながら移動したことがあった。信輔は下の道路に転落せず無事移動できて得意になっていたが、後でともゑから厳しく注意された。

    幼いころからあった好奇心は生涯続くらしい。信輔は73歳になった今でも好奇心は旺盛である。信輔が中学生になったとき、信輔は大変危険な行為をしている。それは乙津川にかかっている鉄橋の上で、走る列車の客車のデッキから隣りの客車のデッキに手足を伸ばして移動したことがある。当時は客車は蒸気機関車が牽引していた。デッキから顔を出し、前方の機関車を見ながらデッキからデッキに渡ったのである。それは一度だけであった。

  話は横道にそれたが、信輔の汽車による通学は第一学期だけで終わり、信輔は父・一臣が校長を務める国民学校に転校した。その学校は鎌田君を除いて同級生は全員朝鮮人であった。それまで鎌田君が級長をしていたが、二学期から信輔が級長に命じられた。

    その年の秋のある日、級長になったばかりの信輔は鎌田君と一緒にその学校の校庭の脇にある台地の上に登り、そこで育てられていた梨園の中に入った。梨がよく熟れていた。信輔は鎌田君と一緒にそれぞれ一個づつもぎ取って食べた。信輔をその梨園に連れて行ったのは鎌田君であった。「梨が熟れている、食べよう」と言いだしたのも鎌田君であった。信輔たちが無断で梨畑に入り、梨をもぎ取って食べている様子を誰かが見ていて職員室に告げられた。校長の息子が盗みを働いたのであるから大問題であった。

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