2010年9月11日土曜日

母・ともゑ (20100911)


  入学式は4月である。信輔は5月生まれである。従って入学のときは満7歳である。信輔が母親に連れられて朝鮮の慶尚北道から日本に引き揚げてきたのは終戦の年の8月、小学校2年生のときであった。その時は満9歳になっていた。一方、洋介は8月末生まれであったので、終戦の時はまだ満8歳だった。数えならばお互い同じ9歳であった。お互いもう73歳にもなって先はそう長くはない。いずれあの世にゆく。

  信輔は「昔はね、俺も前ばかり見ていたよ。今は、後ろばかり見るようになった。」と今の心境を洋介に話した。洋介は他の竹馬の友と違い70を過ぎてようやく初孫を得た。女の子だった。そこで息子には「頑張ってもう一人男の子を産ませろ」とけしかけているそうである。その一方でできるだけ長生きしようと頑張っている。数年前から膝の関節の具合が悪くなり、それをなんとか直したいと今日も医者に行ってきたという。信輔は「俺の弟・信直も君と同じように膝をやられている。ヒアルロンサンとか何かの注射を打ってもらっているらしいよ。」「実は俺も今日それを打ってもらって来たんだ」と洋介は笑いながらそう言った。信輔は母・ともゑのことに話を持って行った。

  「君のお母さんはいつ亡くなったのか?俺はあの頃そんなことは全く知らずにいたなあ」と洋介が言った。信輔はともゑの死に際の状況を洋介に話して聞かせた。「俺は母上(はあじょう)のことを小説に書こうと思うんだ」。

   信輔は以前、中学・高校校時代の恋のことを題材にした短編小説を書いてブログで公開していた。その小説には洋介も芳郎も別名で登場させている。そしてその小説のコピーを当時の竹馬の友数人に渡してある。勿論、洋介にも渡してある。その小説の中で恋の相手は洋介も芳郎も良く知っている同級生であるので、信輔もそれらの女性にはコピーを渡すことはできずにいる。しかし、彼女らも風の便りに信輔が自分を登場させた小説を書いたことを聞いているに違いない。

  信輔は洋介からの「また、いいのが出来たらコピーを送ってくれ」という要求に、「ああ、そうするよ」と言って、久しぶり洋介との会話を終えて電話を切った。

 

  信輔や洋介や芳郎らが子供の頃過ごした土地はその昔、摂関家の領地であった豊後高田庄と言われていた大分県の鶴崎地方である。その鶴崎地方の臨海部に工業地帯を造成する構想は戦前からあったが、昭和30年代(1955年代)に入って具体化し、昭和32年(1957年)8月に大分・ 鶴崎臨海工業地帯造成計画が決定され、11月には 兵庫パルプ鶴崎工場 ( 鶴崎パルプ)が操業に入っている。

  昭和34年(1959年)10月には 大野川左岸から大分川左岸まで1,066万㎡が埋め立てられ、昭和35年(1960年)から39年(1964年)にかけて、九州石油、富士製鉄 ( 新日本製鉄 )の進出が決まり、昭和39年(1964年)には、九州で初めての製油所である九州石油が日産4万バーレルで操業を始めている。

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