2010年9月14日火曜日

母・ともゑ (20100914)


  信輔がお経を上げるとき信直も傍に座って一緒に経を読んでいた。「門前の小僧習わぬ経を読む」諺のとおり、お経を上げていてもその経の内容や意味について理解しているわけではなかった。ただ、ひたすらに経を上げていたのである。ただ「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)南无不可思議光(なーもーふーかーしーぎーこう)法藏菩薩囙位時(ほーぞーぼーさーいんにーじ)在世自在王佛所(ざいせじーざいおうぶっしょ)」と、ご院家様のお経の上げ方を真似て高低長短の節をつけてお経を上げると気持ちが良かった。特に気持ちが良かった幾つかの句があった。例えば「萬善自力貶勤修(まんぜんじーりきへんごんしゅー)圓滿徳號勸専稱(えんまんとくごーかんせんしょう)三不三信誨慇懃(さーんぷさんしんけーおんごん)」という下りなど特に気持ちが良かった。お経を唱えていて気持ちが良かったから、お経の中身は全く知らなかったが73歳になった今でも信輔は部分的に覚えているのである。

  信輔はお経を上げても母に会えるとは思っていなかった。ただ仏壇の前に座りお経を上げると何故か心が安らいでいたことは覚えている。子供心に何か満たされないものがあったのであろう。母が亡くなったという現実を受け入れていなかったのではないかと思う。

  当時57歳であった信輔の祖母・シズエは9歳を頭に7歳、3歳、1歳の子供たちの母親代わりをしていた。シズエは病死した3人の子供を含め9人の子供を産み、育てたうえに、母を失った4人の子供をまた育てねばならなかった。信輔は子供時代、母の死を受け入れぬまま母が居る子供のようにしていることができたのは、祖母・シズエのお陰であったと思う。

  信輔は子供のころのことであったのでおぼろげながらしか記憶は残っていないが、シズエは病院から見放され死の床についていた嫁・ともゑの背中を拭いてやっていたり着替えをさせてやったりしていた。信輔にともゑは「起こしておくれ」「背中をさすっておくれ」と言っていたが、シズエは信輔の知らないところで誰かの世話なしでは起きることもできなくなっていたともゑの下の世話もしていた筈である。その期間は1ヵ月ぐらいのことであっただろう。病院に入院してすぐ手術を受け、治癒の見込みもなくなって病院を出るまでの期間も2ヵ月ぐらいのことであっただろう。信輔が記憶しているのは、ともゑが入院していたのは夏から秋にかけての頃であった。少なくとも真夏ではなく、また寒い時期でもなかった。

  農家としても忙しい時期にシズエは信輔以下の子供の世話もしなければならず、死に前の病人の世話もしなければならなかった。そういう時期、嫁いでいるシズエの娘たち、つまり信輔の叔母たちも時々在所に戻ってきては何かと手伝っていた。特に、近くに住むマツエはよく手伝っていた。

  信輔の母は有馬家の長男・一臣に嫁いで来たが信輔のお産んだ時以外その家に住むことはなく、小学校の教師である一臣と一緒に住み、夫・一臣が朝鮮慶尚北道に転勤となったときも一緒に朝鮮に渡っていた。夫の家に住居を移したのは終戦の年、昭和20年(1945年)8月の終わりごろから翌年1218日に死んだときまでの僅か1年半だけであった。

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