2010年9月19日日曜日

母・ともゑ (20100919)


  柳川は醴泉郡の田舎の邑である。柳川公立国民学校の敷地内に校長官舎があった。永川から其処に引き越すとき、信輔と父・一臣は引越し荷物を運ぶトラックの助手席に乗って移動し、信輔の母・ともゑと弟・信直、妹・富久子は汽車で移動した。その時、信輔は8歳になったばかりであり、信直は6歳、富久子はまだ2歳になっていなかった。

 後に信輔の妻となった幸代の叔父・正造は当時19歳で鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局の略称)の機関士として乗務していたが、もしかしたらともゑ達が乗った汽車の機関士は正造であったかもしれない。正造は終戦前にたまたま公務で日本に帰っていたので、終戦時の混乱を免れることができた。正造が後年韓国旅行をした際、当時の鮮鉄の韓国人の仲間と再会し旧交を温めたという。

    ある日、正造が運転していた汽車が前方から誤って走行してきた汽車に正面衝突され、正造は急ブレーキをかけたが間に合わず、前方から突進して汽車は正造の機関車の上に乗り上げ、相手の機関士(日本人)が死ぬという重大事故が起きてしまった。そのとき正造は憲兵隊に逮捕され、冬の寒い最中牢獄に入れられ、便所も我慢することがあったような辛い日々を送っていた。しかし2週間ばかりして正造は無罪放免された経験をもっている。

    信輔は柳川への移動するときの朝鮮人の運転手が温厚な優しい人であったことを記憶している。信輔は左側の窓際に肩を寄せてちょこんと座っていた。一臣はなるべく信輔の方に身を寄せ、運転の邪魔にならないようにしていた。トラックが川に架かっていた橋の上を走る時、窓から川面がきらきら輝いているのが見えた。

    トラックは夕刻近く柳川国民学校の校長官舎に着いた。官舎には既にともゑ達が着いていて一臣と信輔の到着を待っていた。新校長の受け入れ準備は教頭の鎌田さんが行ってくれていた。一臣達はトラックから引き越し荷物を降ろし、一段落して鎌田さんの家に挨拶に行った。鎌田さんの家では夕食の支度を整えてくれていた。一家は鎌田さんの家でおかずとして卵焼きが1個付いていた夕食を頂いた。天井に暗い電灯が1個ぶら下げっていた。

    鎌田さんの子供に信輔と同じ年の男の子がいて、信輔の遊び仲間になった。ただ、遊ぶときは週末など学校が休みの時に限られていた。と言うのは柳川への引き越しは新学期が始まった1ヵ月後の5月のことなので、信輔は、信輔は既に永川の国民学校に入学していて、柳川の校長官舎から通学していたからである。

    信輔は国民学校に入学したとき7歳であった。同級生に5歳も年上の新井玄観という朝鮮人の同級生がいたが、信輔は玄観を兄のように慕っていた。玄観は信輔たちをよく遊びに連れていってくれた。川辺のポプラ並木のところで遊んだ時、玄観はそのポプラの小枝で笛を作って信輔に与えてくれたり、何処かの家の軒下から雀の卵を採り出して、その卵をネギの筒の中に割って入れて火にあぶり、信輔に食べさせてくれたりしていた。

    信輔が下校し汽車に乗って帰り駅を出て歩いていると、前方からともゑが乳母車に信直と富久子を載せ、おやつを持って迎えにきてくれていた。

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