2010年9月10日金曜日

母・ともゑ (20100910)


   今年の夏の暑さは異常で北海道や青森など東北地方の北部を除き連日30度以上、それも35前後が殆どで、場所によって37度、38度という高温の日が1ヵ月半も続いている。9月に入って台風が日本海を回り東北地方を横切ってオホーツク海に抜けた日は北寄りの風が吹き込んで涼しかったが翌日にはまたいつもの暑さがぶりかえした。天気予報ではこの暑さも12日以降は幾分和らぐということである。

  このところ信輔は久しく会っていない竹馬の友、洋介のことが気になっていた。電話してみようと思いながらずるずる今日まで経ってしまった。信輔が半年ぶりに洋介に連絡をとったきっかけは信輔が今朝見た夢であった。信輔は今朝明け方母・ともゑの夢を見て目が覚めた。夢の内容は覚えていないが間違いなく母の夢であった。

  ともゑは信輔が10歳の時、日本がアメリカとの戦争で負けた翌年の昭和21年12月18日、33歳の若さでこの世を去った。1年前の8月、ともゑは信輔ら子供3人を連れて朝鮮から引き揚げて信輔の祖父にあたる義父・又四郎の家に身を寄せたが、そのときともゑの乳房には異変があったに違いない。その年の9月末に信輔の父である夫・一臣が朝鮮人の同僚たちに仕事の引き継ぎを終えて引き揚げてきた。その後昭和21年の正月を挟んで、戦地から信輔の叔父たちも次々帰還してきて又四郎の家は急に大家族になった。そういう状況の中でともゑの乳房のしこりが目立つようになり、ともゑは親戚筋にあたる別府の内田病院に入院した。その時は既に手遅れの状態であった。

  洋介は千葉の松戸に住んでいる。「お・げ・ん・き・で・す・か?」「お、おー、有馬か、ま、なんとか生きていているよ、毎日暑いねー」。有馬は信輔の名字である。洋介の名字は内田である。信輔と洋介は小学校のときからお互い名字だけで呼び合っていた。同じ竹馬の友でも‘君(くん)’づけで呼ぶ友もいる。鈴木芳郎に対してはどういうわけか小さい時から「よしろうくん」と呼んでいた。鈴木、佐藤、犬の糞(くそ)というほど鈴木とか佐藤という名字は多いのでそう呼んでいたのか、芳郎君の家は大資産家であったため子供ながら敬意を表してそう呼んでいたのか定かではない。

  「俺、今朝、母上(はあじょう)の夢を見てね。急に君に電話したくなったんだ。さっき君が前に送ってくれた子供のころの写真を取り出してみて見たんだ」。洋介のところでは夕食も終え、内縁の妻の立場である美千代さんが電話の向こうで何やら言っている声が聞こえる。洋介は信輔の子供の頃のことを聞いてその頃のことをいろいろ確かめたくなった。

 竹馬の友といっても、信輔や洋介や芳郎がお互いの家を行き来して遊んだのは信輔が終戦後別保小学校に転校した昭和20年9月以降のことである。しかしお互い子供の時のことなので良く覚えていない。洋介は信輔と一緒に別保小学校に入学したと思い込んでいた。

  「小学校に入ったのは数えで8歳、満で7歳」と洋介が言う。「違うよ、満8歳だよ。」と信輔。「ん?俺たちは昭和12年生まれ」。「そう、1937年だ、戦争が終わったのは昭和20年、1945年だ。そのとき俺は9歳だった」。信輔も頭の中がちょっと混乱してきた。

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