2011年4月23日土曜日

うれしいこと(20110423)

 うれしいことが二つある。当然と言えば当然であるが、これまでならなかなかすんなりとは行かなかったのではないかと思う。

 一つは、「日独交流150周年を記念する決議」である。民主党の原案は、「(先の大戦に関し)両国はその侵略により、近隣諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」であったが、その「侵略」という言葉が削除され、「各国との戦争状態に入り、多大な迷惑をかけ、両国も多くの犠牲を払った」と修正されたことである。

 国家や天皇制よりも「市民」を標榜する故に、‘反国家的政党’である共産党と社民党はこの修正案に反発し、22日の衆議院本会議で反対する方針であるとの新聞報道である。

 もう一つは、自民党の谷垣総裁と大島副総裁らは、21日、靖国神社の春季例大祭に合わせ、靖国神社を参拝したことである。谷垣総裁は昨年815日以来、総裁就任後3回、靖国神社に参拝しているという。祀られている英霊たちは、さぞ嬉しく思っていることであろう。このブログでは、「靖国神社と菅首相」と題して、49日に記事を公開している。

 平和ボケし、「市民」を標榜し、国家観の希薄な政党、政治家たちは、この国にはもう要らない。此の度の大震災は、日本人に強烈な国家観と共同体意識を呼び覚ました。

 国家あっての国民である。万世一系の天皇あっての日本国である。「日の丸」の国旗、「君が代」の国歌あっての日本国である。あとは、「自衛隊」ではなく、ちゃんとした「国防軍」を持ち、同盟国との集団的自衛行動をとることができる当たり前の国にすることが、課題として残っている。それは、今、40歳代前後の志ある政治家たちに期待する仕事である。

 菅首相は、今は思想が変わってきているかもしれないが、国歌の「君が代」を批判した。「君が代」の「君」は、決して天皇のことではない。古来、天皇は「大君(おおきみ)」である。「君が代」も「君」は、抽象的に表現した個々の人のこと、つまり、国民ひとりひとりのことである。「あなた」や「わたし」が、「君」なのである。

 国民ひとりひとりが、しっかりした国家観を持たない限り、近隣諸国の政府は、尖閣諸島、竹島、北方領土を、「外交問題」にしようとする。政府は「国益」を主張する。お互いの国々の、それこそ「市民」レベルでは、近隣諸国の「市民」と日本の「市民」とはお互い仲が良い。「市民」と「国家」とは、違うものであるのだ。それを、見識の浅い政治家や、思想的に「反日」の政党は「市民」と「国家」を同じものであると主張する。

 此の度の大震災は、「天罰」である。見えざるところ、人智を超えたところから発せられた恐ろしいものである。日本国民皆が心を一つにして合掌し、その見えざるもの、人智を超えたものを畏れる気持ちを持てば、この日本には明るい未来が必ず開けてくるであろう。

 天皇陛下は、皇后陛下と被災地を巡幸されるとき以外、宮中にあらせられては、昔から定められている式に則り、日本の国家と国民のために祈りを捧げて下さっている。

 今、各地で復興に向けて人びとの気持ちが高ぶってきている。日本は、この国難を乗り越えて、必ず、再び「ライジング・サン(太陽が昇る)、日出る国」となるだろう。

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