2011年6月27日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110627)


 最近の中国の行動に対してアメリカは自制を求めている。日本が同じように中国に自制を求めても、中国は聞く耳を持っていない。「自存」という行動の意味を日本人はよく理解しなければならない。「国益と国益のぶつかり合いである」と‘解ったような’ことを口にすべきではない。「自存」のため、人も組織も国もなりふり構わぬ行動をするものである、と理解すべきである。その上で、相手に対して自分はどうあるべきか考え、行動すべきである。それこそが相手との関係において安定と調和を保つ唯一の方法である。

 日本をとりまく2国間関係において日本の近代の歴史をよく学ぶことは、現代をどう生きるべきかという知恵をえる最も良い方法である。日露戦争の戦端はどうであったか史実をよく研究し、現代において日中間の諸問題を解決する方法を見出さなければならない。

ところが、戦後生まれの政治家たちは学校において、日本と隣国の間の近代史について正しく学んでいない。むしろ間違ったことを教え込まれている。このことを我が国の政治家たちはよく認識し、改めて自ら進んで猛勉強しなおすべきである。猛勉強すべき内容は、 明治時代の日本と当時の帝政ロシア、李氏朝鮮、後の大韓国、中国の清王朝末期との関係、および当時の列強の行動と、日本の行動を導いた「武士道」精神についてである。

私は、当時のことを概観し、当時の日本を含む関係各国は皆それぞれ「自存」をかけて行動したと理解している。キーワードは「自存」である。私は、「自存」とは「生き残ること」である、相手との関係において、見せ掛けや見栄や策略などによるものではなく、真に強いことによって優位に立つことである、と理解している。さらにこれは日本においては、「武士道」精神の根底・深層にあるものであると理解している。この点、他国とは違う。

昨日書いたブログ記事の中国の行動について列挙したことは、中国の「自存」行動の端的な現れである。日本がこれに対して「武士道」精神ももたず、「大和民族」の誇りも自覚もなく、アメリカが押し付けた憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」という、女性に対しては失礼かもしれないが、‘めかけ(妾)’のような甘っちょろい姿であることは悲しい。戦後生まれの政治家たち、特に60代の政治家たちにこの国を任せておいて良いものかと私は憂える。

秋山代治郎氏は、放送大学教養学部の卒業論文において日露戦争の戦端が何であったかを明らかにし、修士論文においては日露戦争についてこれまで伝えられてきたことの間違いを明らかにしている。私は、日本を取り巻く近代の国際関係の歴史を学ぶということは、現代の日中間のお互い「自存」を目指す緊張関係から、偶発的に生じるかもしれない武力衝突を未然に防ぐ方法を知るということであると思っている。

秋山氏は、外交官・幣原喜重郎の著書『外交五十年』(中央公論社)の冒頭の「朝鮮の思い出」と云う一節の文中にロシア巡洋艦ワリヤーグ号が「撃沈もされず、戦争は終わった」と述べている箇所について疑問を抱き、ソ連抑留時代に学んだロシア語によりロシアの文献を調べ、翻訳するなどして研究し、その誤りを指摘した。         (続く)

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