2011年6月29日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110629)

 中国はかつて毛沢東時代、「自らの力を基本とすることを自力更生と呼ぶ。我々は孤立してはいない。帝国主義に反対する世界のあらゆる国や人民はすべて我々の友人である。しかし我々には、自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」として「自力更生」をスローガンに掲げていた。私は中国の「自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」という姿勢は、今でも変わっていないと観ている。

 尖閣諸島中国漁船衝突事件は、中国が「自存」を全面に押し出した結果起きた事件である。これに対して、なぜ日本は「自存」を前面に押し出さなかったのか?それは、日本が「自存」の観念が乏しく、領土・領海に関する紛争は、当事国間の「国益」と「国益」の衝突という程度にしか考えていないからである。「自存」とは「自己の生存」であり、「他の何ものにもたよらず自己の力で生存すること」である。「国益」とは意味が違う。国家における「自存」とは、他国を支配下においてでも自国は生き残り、国際社会の中で優位を確保しようとする、ある意味ではライオンや虎などの野生動物と変わらない生き方である。

 このブログのラベルの「万物は皆自存を目指す」という文言は、私がかつてスピノザの哲学について少しばかり勉強したとき、スピノザが「自存力」という言葉で人間やその他の個物がその存在に固執するように努める」ことを説いたことを知ってひらめいた文言である。人や国家がルールや法を無視して「その存在に固執し、「自存」を前面に押し出すと、自ずと摩擦が生じる。このことを日本人はしっかり認識すべきである。

幕末から明治時代の日本人は、欧米列強の脅威にたいしてしっかりと「自存」を認識していた。その結果、戦争を止める経験も知恵もなく、ずるずる深みにはまってしまった。戦争に負け、東京裁判で裁かれ、自信を失ってしまった日本人は、自分たちの先人たちの労苦を顧みず、自虐史観に陥ってしまった。日教組や共産党や社会党などの左翼政党や朝日新聞などのマスコミもこぞって反日的な風潮をかきたてた。盧溝橋事件は毛沢東がしかけた陰謀であるのに、日本人は関東軍の謀略であると信じ込んである。日本の「自存」のため命を落とした人の数は、戦死者230万人、戦没者80万人であった。「あの世」にいるその方々は、戦後の日本人の自虐ぶりを本当に情けなく思っていることだろうと私は思う。

中国は、たとえば中国の新幹線も日本などの技術を利用して自力開発したものであると国際社会に公言し、特許も取得しようとしている。これも、中国が「自存」をかけてなりふり構わぬ行動に出ている事例である。日本の近隣諸国は、日本人の心清く、正しい行動に対して自分たちも当然そのようにしなければなどと、ちっとも思っていない。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」などいう文言は、近隣諸国には通じない。

そのことを理解しながら、まだ武士道の精神が生きており、西欧でも騎士道の精神が生きていた古き良き時代に起きた日露戦争を顧みることが必要である。

以上でこのブログの前書きは終わりとする。明日からは、秋山氏の著作・修士論文・学部卒業論文を引用しながら日露戦争を顧みることにする。それは私の義務である。

0 件のコメント: