2011年6月25日土曜日

日露戦争前哨戦(20110625)

 私は、放送大学同窓会の役員をしていた時、同窓生の秋山代治郎氏と知り合った。氏は1921年11月、仁川府(現在の韓国仁川広域市中区)に生れ、仁川商業学校、明治学院高等商業部を経て、台北帝国大学を卒業された。氏の伯父・城戸忠彦少将は、山本五十六連合艦隊司令長官と深い交流があり、氏の伯父は山本五十六最後の信書(絶筆)を受け取っていた。私は氏からそのコピーを頂いている。

 山本五十六長官は前線視察中、ブーゲンビル島上空でアメリカ空軍機に襲われて撃墜されて戦死した。氏は、その年(昭和18年、1943年)11月に学徒出陣し、軍務に就き、日本の敗戦によりソ連エラプカに3年間抑留されていた。抑留から解放された翌年商社・日商㈱に入社し日商岩井㈱取締役を経て5年間日商エレクトロニクス㈱代表取締役を務めた。その後放送大学教養学部に入学し、「社会と経済」「人間の探究」「産業と経済」「生活と福祉」「発達と教育」「自然の理解」の各専攻を卒業され、2006年に放送大学大学院文化科学研究科に入学し修士課程を終了された。

 私は氏から、氏の放送大学学部卒業研究論文のコピー、著作『歴史記述に於ける虚構と真実―知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』、及び氏がご自分の修士論文を本の形にした『近代日本と日露戦争』を頂いている。私は氏からそれらの文献の内容について、ブログに書くことの了解を得ている。

 私は氏より16年年下である。今、戦後生まれ世代がこの日本を動かしているが、非常に危ういものを感じている。私は終戦の年の夏、9歳の時、母、弟妹と一緒に朝鮮・慶尚北道から引き揚げた。慶尚北道公立国民学校長や青年特別錬成所長などをしていた私の父は9月に引き揚げた。私自身空襲に遭うなどといった体験はないが、小学校低学年のとき戦前と戦後の学校生活の違いや終戦直後の社会の状況や貧しい生活を体験している。そういう意味で、日本のあるべき形について、秋山代治郎氏のような方の著作の内容を、私の子供たちを含め、今の時代に生きる人たちに伝えたいと思う。

 氏の著作等の引用にあたっては、引用部分を括弧(“”)でくくることにし、文献の名称などは省くことにする。これまで3回にわたり「万物は自存を目指す」というタイトルとラベルで書いたが、このブログの記事からラベルは同じでタイトルのみ「日露戦争前哨戦」として書いて行こうと思う。

 私は、日露戦争も日清戦争も、戦争の当事国双方ともそれぞれ‘自存’をかけて戦った戦争であると思っている。日本国憲法前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」とあり、第9条第1項に「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、第2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある。私は、日本はこの憲法では、自ら存続することは絶対にできないと確信している。中国軍や中国の海上警備部署(海監)やロシア軍は、常にわが自衛隊の戦力をチェックし、時に危険な行動に出ている。(続く)