2011年6月30日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110630)
秋山代治郎著『歴史記述における 虚構と真実 -知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』のはじめに、明治時代の外交官で、戦後第一次吉田内閣で国務大臣などを務めた幣原喜重郎が、晩年、読売新聞社の求めに応じて口述した回想録『外交五十年』を引用した次の一文がある。秋山氏はその中の「撃沈もされず戦争は終わった」という部分に疑問を感じ、調査研究結果その部分は間違っているということを明らかにした。

 “日露戦争の直前、そのころ私(幣原喜重郎)は仁川の領事館にいた。仁川港には、日本の軍艦もロシアの軍艦もいた。形成は嫌悪だったがまだ国交断絶ではないから、砲火相見ゆるという危険には至っていない。日本の艦長は藤井較一といって、後に大将になり、軍令部長になった人だが、私のところに来て、「ロシアの艦長を一つ昼飯に呼ぼうと思うがおれ一人では具合がわるい。君も来てくれ」というわけで、ロシアの艦長も快くやって来て、今はどうか知らないが、そのころ仁川唯一の大仏ホテルで午餐会をやった。・・(中略)・・お客の艦長も大した機嫌で、「近ごろ新聞で見ると、日露の関係がよほど切迫しているようだが、それは政府と政府の外交の仕事で、おれたちの関係したことじゃない。だからそれはお互い知らん顔だが、もし不幸にしてこれが戦争になると仮定したら、おれたちは敵同士だ。その時はおれは、君がどの艦に乗っていようとも、君を目がけて突進してやる、いいか」という。藤井艦長も「よしッ、こいつは面白い男だ」というわけで、互いに手を握っては、ガブガブ飲み交わす。・・(中略)・・ロシアの艦長が乗っている艦は、ワリヤーグという巡洋艦で、翌朝五時に仁川を出港する予定であった。こっちから望遠鏡で見ていると、四時ごろまで飲んで酔っ払っていた艦長が、ちゃんとブリッジに立って指揮をしている。・・(中略)・・

 その後いよいよ戦争になって、ロシアの軍艦はみな旅順に入り、日本の軍艦はそれを封鎖した。するとときどき露艦が艦形を組んで港外に突進してくる。その先鋒の艦に例の艦長が乗っていて、藤井の艦長をしている艦を知っているらしく、まるで藤井個人を目がけるようにやって来る。それで藤井艦長も「おれがあいつを取っ捉まえてやろうと思って、盛んに射ち合ったものだ」と話していたが、しかし、お互いの艦は撃沈もされず、戦争は終わったという。”

 秋山代治郎氏は、“私の知る限り、ワリヤーグ号は砲艦コレエーツ号と共に、日露戦争(明治三十七\八年)開戦の冒頭で、仁川港の沖合において日本艦隊と砲火を交え、破れて港内に逃げ込み自沈した筈である。即ち.日露の緒戦「仁川沖海戦」がそれである。”と言い、各種証拠を揚げて論述している。

 そして、“日露戦争のほんのはじめの一部分にすぎない「仁川沖海戦」についても幣原喜重郎の思い違いによって間違った情報が史実として後世に伝わってしまうのである。”と言っている。「自存」を前面に出している中国が、もし謀略をもって尖閣諸島など離島を占拠してしまった場合、日中両国は後世に対してどういう情報を遺すことになるのだろうか?