2011年6月23日木曜日

万物みな自存を目指す(2 )(20110623)

 急に夏になった。玄関の入り口は例年のように閉じてあった格子戸を開き、南北への風通しを良くした。今年は特に省エネということもあって早々に竹を編んだベッドの敷物を取り出し、その上にバスタオルを広げ、扇風機の風を受けながら、うつ伏せになって少しばかり昼寝した。家の中では私は上半身裸である。ただし誰か来て玄関に出るときのため、1枚のシャツをベッドの枕もとに掛けておきいつでも着ることができるようにしている。

 机上にこのパソコンの裏面を持ち上げるように紙製パイプの枕を敷き、小型扇風機で冷やしている。その音とともに、風鈴やどこかでスズメなど野鳥の鳴く声がする。昨日このブログに書いた秋山氏に刺激され、今日からは私は日々の過ごし方を修正することにした。今後は、私はブログの記事の中で自分を客観視したような人物を描かないことにした。

私はかつて一時期よく勉強したものだと思う。そのとき勉強したことが、私の中にある種の思想体系を作っていた。そしてこの世界の現実を観てその思想体系にあてはめ、その実態を把握しようとしてきた。末尾の数字以外同じタイトルの昨日の記事は、そのような把握に基づくものである。

 私は17世紀の哲学者・スピノザの哲学に共鳴している。現代の自然観がスピノザの自然観と何か関わり合いがあるように思い、この世のあらゆる現象をすべてスピノザの自然観に結び付けて把握しようとしている。一方で私はこの世の様々な出来事の中には、未知の何か、お釈迦様が「無記」として議論することが禁じられている世界によって起きているものがあると思っている。人間はその未知なものが何かまだ究明できずにいるが、いずれ必ず究明するに違いないと思っている。お釈迦様、2500年前のインドのシャークヤ族出身の聖者、ゴータマ姓出身の悟った人即ちゴータマ・ブッダ、つまり釈尊が説かれた『人間の学』ともいうべき仏教は、将来科学的にも必ず納得されるものであると思っている。

 私は50代の頃、春秋社から出版された水野弘元著の『仏教の基礎知識』や『仏教要語の基礎知識』という本を買って時々それを取り出しては読んでいた。それらの本に書かれているところによれば、釈尊が説かれた「業報説」や「善悪説」は、釈尊が仏教独自の学説の「縁起説」に人々を誘引するため、予備的な入門として説かれたものである。釈尊は人々の苦悩を解決してゆくために必要な限りにおいて、社会や人生の動きを縁起として考察し、説かれたという。「人々の苦悩を解決してゆくために必要な限りにおいて」であるから、元より釈尊が説かれたものは、現代科学とは別次元の学問である。

 タイトルの「万物みな自存を目指す」という命題は、現実の社会現象にあてはめて考えると、事実そのとおりであると思う。今、国会では菅総理の辞任時期と会期と審議すべき法案のことでもめている。これも概観すれば、政治家や政党などがお互い「自存」をかけて争っていることである。スピノザは「自存力」というものが、汎神論の立場から人間のだけでなくすべての個物の性格として存在していると説いた。私はスピノザと同じ視点で自分自身の事や社会問題や国際問題などを考えてゆきたいと思う。

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