日露戦争前哨戦(補記) (20110728)
日露戦争は避け得ただろうか?秋山氏は日本側の政権が第4次伊藤内閣から軍人の桂太郎内閣に変わった。ロシア側でも変わった。秋山氏の論文を引用する。
“政治機構の改革により、極東問題の管掌がアレキセーエフ総督に委譲され、交渉の場がペテルスブルグから東京に移ると同時に、交渉相手がラムスドルフ外相からローゼン駐日公使に替わってしまった。アレキセーエフ総督経由する二重段階交渉の煩わしさが、日露協商を長引かせて無用の疑惑を生み、交渉を困難にした一因でもある。
小村外相はローゼン公使と幾度かの協議を重ね、その主張も取り入れ、日本側の大幅な譲歩を示して確定修正案を作成、10月30日に提示した。これはロシア側にしても、協商妥結の好機であった筈である。
ローゼン公使は意を汲んで、アレクセーエフ総督に対し互譲の要を進言したけれども、露国極東軍総司令官でもあるアレクセーエフの一途な剛直さがそれを受け付けなかった。本国政府においても、今少し慎重に日本側の提案を読み取り、その意を汲みあげたならば、この時戦争は回避される可能性があったであろう。
ロシア側では日本の提案を真摯に受けとめてその真意を理解し、もって(皇帝ニコライ二世に対する)輔弼の役を務めるべきお政治家がいなくなっていた。畢竟、皇帝はロシアの栄光を誇って主張する対日強硬派の流れに影響されて、賢明な勅裁を下すことができなかったのであろう。
とにかく12月11日、日本にとっては到底認めることが出来ない強硬な第二次回答がロシア側から提示されたことは、露国外交の思慮の欠如であった。これを受けて、日本政府の開戦の決意は固められたのである。軍備の充実、戦略・戦術の研究は、陸軍も海軍も可成り早い時期から進めていたのであるが、陸軍参謀本部の具体的な対露作戦計画は、この時、明治36年12月に即時開戦を目ざして樹立され、作戦行動の綿密な手順までまとめ上げられ、軍隊の動員・部隊の編制も密かに発令されていた。
海軍も、12月28日に常備艦隊を改組して戦時編成に準拠して連合艦隊を組成し、その司令長官に東郷平八郎を任命した。・・(中略)・・
この緊迫した日本の情勢を、ロシア側も知っていた。アレクセーエフ総督は流石にこれを深刻に受けとめ、急遽、ニコライ二世に対し、極東に於いて動員令を下すことを要請し、1月25日には旅順とウラジオストックに戒厳令を布告した。
更に、1月30日、ロシア公使館の武官から「日本の艦船数十隻が佐世保に集結していること、これは単なるデモンストレーションではなく、近く露国と戦争を開始せんとする重大な決意とみられる」旨の緊急通報が届いた。アレクセーエフは、再びニコライ二世に対し、極東に於いて動員を開始して、ロシアの艦隊が何時でも出撃できるよう許可を求める請訓電報を打電した。これに対してニコライからは次の訓電が送られてきた。”
(続く)
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