2011年9月23日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(24) (20110923)

 “『古事記』『日本書紀』の持つ意味

 日本では最初に国史編纂を意図したのは聖徳太子(しょうとくたいし)(五七四~六二二)と蘇我馬子(そがのうまこ)(五五一?~六二六)であったとされる。各種の史料を集めた形跡があり、『天皇紀』と『国記』という史書が完成したといわれるが、これらは馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)(?~六四五)が滅ぼされたときに喪失したといわれている。

 次に天武(てんむ)天皇(在位六七三~六八六)が天皇家の系図や古い伝承を保存するために国史編纂を試み、稗田阿礼(ひえだのあれ)に『帝紀』(天皇の系譜の伝承を記した書物)と『旧辞(きゅうじ)』(各氏族の古い伝承を記した書物)を暗誦(あんしょう)させた。しかし、完成する前に天皇が亡くなられたため、その後は天武天皇の遺志を継いで、息子の草壁御子(くさかべのみこ)の妃である元明(げんめい)天皇(在位七〇七~七一五)が太安万侶(おおのやすまろ)(?~七二三)に命じ、稗田阿礼の口述を筆録・編纂させた。こうしてできあがったのが、『古事記』である。

 『古事記』は表記法を漢文によらず、漢字を意味に関係なく表音文字として日本語に移して書いている。ただし、それでは文章があまりにも長々しくなるため、簡略化のために一部に漢語を使うという和漢混交方式をとった。そのため、漢語が混じり合った日本語という形になっているが、そこに出てくる和歌や神様の名前、人の名前、地名など無数のものは、厳密に漢字を表音記号として使っている。

 しかし、元明天皇は漢字を表音文字として使う表記方法が不満だったようである。そこから正式な漢文で史書を作ろうという機運が生まれ、『日本書紀』が編まれたのではないかと考えられる。

 『古事記』の完成から八年ほど後、元明天皇の娘で皇位についた元正(げんしょう)天皇)(在位七一五~七二四)が舎人親王(とねりしんのう)を総裁にして編纂させたものが『日本書紀』である。『日本書紀』は外国に見せるという意図もあったと思われ、堂々たる漢文で地の文が書かれている。

 『日本書紀』で注目すべきことは、第一巻として神代巻を作り、しかも、一つの話についての伝承をすべて併記している点である。すなわち、「一書ニ日(イワ)ク」「一書ニ日ク」「一書ニ日ク」という形である本にはこう書いてある、またある本にはこういっていると、いろいろな部族のもつそれぞれの伝承を集め、無理に一つにまとめずに諸説をずらりと並べてあるのである。

 『古事記』と『日本書紀』の二つの根本的な違いがある。『日本書紀』の編纂に携わった人たちが如何に真剣に、できるだけ正確な歴史書を作ろうとしていたかということが良く分る。江戸時代・本居宣長や戦前戦後・津田左右吉などによる歴史批判はあるが、日本人ならば『古事記』・『日本書紀』の「神代」を物語(神話)プラス史書として誇りに思い、学問的な「批判」には左右されないことが日本人のあるべき姿である。     (続く)

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