2011年9月22日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(23) (20110922)

 古代に天皇の宮殿に匹敵するような邸宅を造り、それを「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と呼ばせ、さらに自分の子女たちを「皇子」と呼ばせ、また畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した人物がいた。その名は蘇我入鹿(そがのいるか)である。その父・蘇我蝦夷(そがのえみし)は、天皇の許可なしに入鹿や弟を大臣にしている。

 蘇我本宗家は蘇我稲目(そがのいなめ)→蘇我馬子(そがのうまこ)→蘇我蝦夷→蘇我入鹿と続いたが、入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)に大極殿で誅伐され首を刎ねられた。その翌日父の蝦夷は自分の邸宅に火を付け自害し、代々大臣を出した蘇我本宗家は途絶えた。傍流に石川氏あり蘇我一族は一定の命脈を保つことができた。聖徳太子が蝦夷と語り合って書き上げられた『天皇紀』は蝦夷が自宅に火をつけた時焼失し、『国紀』はかろうじて焼失を免れ中大兄皇子に奉献されたが史料としては残っていない。

 蘇我本宗家一族は仏教の導入という今日の日本にとって重要な精神文化の礎を築いた功績がある。しかし天皇をないがしろにした罪は重かった。もし入鹿が誅伐されなかったら皇統は今日まで続いたかどうか、大化の改新という形で日本国の基礎が築かれたかどうか。

中大兄皇子の腹心の中臣鎌足は蘇我氏傍流の石川麻呂を味方につけ、中大兄皇子が入鹿を成敗することを助けた。蝦夷誅伐は中大兄皇子にしかできないことであった。古代ではそういう形でしか、正道を外れる強力な政治家を排除することはできなかったのだ。

天智天皇系の聖武天皇の皇女・阿倍内親王(あべないしんのう)(後の孝謙・称徳天皇)が孝謙天皇であったとき道鏡によって皇統が途絶えそうなときがあった。このとき正しい道に戻そうとして行動を起こし失敗した大伴氏族は謀反の罪で没落してゆく状況になってしまった。大伴氏・佐伯氏は古来代々天皇を護る役目を負ってきた氏族であった。

聖徳太子が初代女性天皇・推古天皇の皇太子・摂政であった時、聖徳太子は天皇になることはなかったが、推古天皇の次は神武天皇以来の男系の皇統で続いた。孝謙天皇の時も宇佐神宮のお告げで道鏡が宮廷から追い出され、男系の皇統を維持することができた。

日本は有史以来初めて外国の軍隊によってこの国土が支配され、「勝てば官軍」のような極東軍事裁判の判決で天皇を護りとおした東条英機元首相・陸軍大将ら七人の侍がナチス同様の罪を着せられ処刑された。
古来いろいろな事件がありながらも、その時々に皇統を護ろうとする人物が現れ、男系の皇統が今日まで続いている。小泉首相のとき自虐史観に捉われているとしか思えない学者らにより、危うく女性天皇でない女系天皇を認める法案が作られそうになったが、秋篠宮に男子が授かり、男系の皇統がかろうじて続く状況にある。しかし非常に心細いかぎりである。旧皇族を皇族に戻し、男系天皇が維持されるようにすることが必要である。

そのためには、この国に皇国史観を取り戻さなければならない。天皇をないがしろにするような勢力は一掃されなければならない。渡部昇一『日本史』は日本人を自虐史観から脱皮させ、日本人に皇国史観をもってもらうための非常に適切な書物である。  (続く)

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