2011年9月27日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(28) (20110927)

聖武天皇と奈良の大仏

 その後仏教はますます盛んになっていく。そして聖武(しょうむ)天皇(在位七二四~七四九)の時代になると、日本の各地に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられ、総国分寺として奈良に東大寺が建造された。これはいろいろな意味で日本の本質を示しているといってよいだろう。

 第一には、仏教は外国から来たものであるのに、日本に入ると外国にもないような壮大なものができあがるという点である。・・(中略)・・

 第二に、奈良の大仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(盧舎那仏(るしゃなぶつ)ともいう)であるが、これは太陽神が仏教に入ったとされる。すなわち大日如来(だいにちにょらい)のことである。大日如来は密教における仏の一つだが、当時、本質的に天照大神(あまてらすおおみかみ)と同じものだと考えられていた。・・(中略)・・つまり、日本の神々は仏教の仏(本地)が姿を変えて日本の地に現出(垂迹(すいじゃく))したものだと考えたのである。・・(中略)・・大仏を造営するときに、聖武天皇が橘諸兄(たちばなのもろえ)を天照大神を祀る伊勢神宮に遣(つか)わして寺を建てる神託(しんたく)を乞(こ)うているという事実からも明らかである。

 第三は、この大仏は天皇の権力で建てるというやり方はせず、すべての人々の協力で建てるという形がとられている点である。それは聖武天皇の「大仏造営の詔(みことのり)」にも述べられている。すなわち、自分は天皇であるから、天下の富も力もすべて自分が所有している。だから、自分だけで大仏像を建てることもできる。しかし、そうでなくて「知識」(寄進(きしん)する信者)が集まって協力して、一枝の草、一握りの土でもいいから資材を持ち寄ってみんなで建設しようではないか――というのである。すべての人がすこしでも献金をして、挙国一致という形をとっているわけである。衆生(しゅじょう)一致してやろうというのは、ほとんど神道的な「みんあの神様」という考えに近い、実に画期的な発想であった。・・(中略)・・

 ここで見てきたように、外国の高い文化文明も日本に入ると日本化して、さらにそれを超えることができるという発想が、奈良の大仏造営のときからすでに日本人の頭の中に定着したといえるだろう。”

 人の能力というものは計り知れないものがある。その能力も先天的な要素、いうなれば個人の資質によるところが大きい。遠い祖先から連綿として受け継いできたもの、それはDNA(=体内遺伝子)に記録されているものによるところが大きい。それに加えて生活環境によるもの、文化、文書などに記録されたもの、そういった要素(=体外遺伝子)も大きい。日本人の祖先の血、そしてこの島国のなかで培われた精神文化、そういったものが外国の高い文化文明も日本に入ると日本化して、さらにそれを超えることができる」能力に深い関係があると私は思う。  (続く)

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