2011年9月26日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(27) (20110926)

聖徳太子

 用明天皇の御子(みこ)である聖徳太子の時代になって、仏教は非常に盛んになる。聖徳太子はまさに天才中の天才といってよい人物である。例えば、いくつかの経文の教授を渡来人から受けると、ただちにそれを理解して注釈をつけ、その注釈が大陸で出版されて版を重ねたと指摘されている。

 聖徳太子は「さまざまな業績を残しているが、まず重要なのは隋(ずい)に送った国書であろう。・・(中略)・・当時大国であった隋は、周辺国はみな野蛮だと思っていた。そこに日本から対等な外交文書(「日出(イ)ズル處(トコロ)の天子、日没スル處ノ天子ニ書ヲ致ス。恙(ツィツガ9ナキヤ・・)」が送られてきたので(隋の煬帝(ようだい)は不愉快に思ったのである。

 しかしいくら相手が大国であろうと外交上は対等であると太子は考えたのだろう。その自信の裏づけとなったのは、日本が神話の時代から王朝が絶えることなく続く「皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国」であるという誇りであったのではないだろうか。

 それが証拠に、太子が二度目に煬帝に送った国書にも「東ノ天皇、敬(ツツシ)ミテ西ノ皇帝ニ白(モウ)ス」とある。どこまでも対等の姿勢を崩さなかったのである。それまでの日本とシナの交渉では、朝鮮を介して朝貢(ちょうこう)の形をとっていたから、これは記念すべき出来事であった。これが日本の自主外交のはじまりであったのである。

 一方、聖徳太子の数々の業績のうち、国内的に大きな意味を持つのは「十七条憲法」を定めたことであろう。この憲法は推古(すいこ)天皇の十二年(六〇四)の夏四月に太子自身が作ったものであり、憲法と書いて本来は「いつくしきのり」と読むらしい。

 憲法というのは、その国のあり方、その国の体質、すなわち国体を示すものである。国体は英語でコンスティテューション(constitution)というが、これも元来は体質という意味である。イギリスではいわゆる成文化された憲法はないが、「コンスティテューション」といえば「国体」を指しているとイギリス人には理解できるのである。

 聖徳太子は、日本の国体としてあるべき姿を、第一条の「和をもって貴(とうと)しとなす」からはじまる一七条にまとめて書き残した。これこそが本当の意味での憲法だと思う。詳しい法律を作った国は他の先進国にもあるが、その国柄をコンスティテュ―ションとして出してゆくという点で、一七条憲法は世界で最古の憲法の一つであると考えてよいだろう。・・(中略)・・第二条に「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり」とある一方で、神道のことは全く書かれていない。・・(中略)・・書かれていない点にこそ意味があるのである。つまり、日本の神を崇めるとは日本の先祖を尊敬せよというのと同じ意味であり、それをわざわざ憲法に書くという発想がないほど当たり前であったということである。”

 国旗国歌法に賛成しなかった民主党の保守派の議員の中には、「日本の国旗・国歌についてわざわざ法律に定めなくてもそれは当たり前のことだから」と反対の理由を述べた人たちがいた。それが詭弁でないことを信じたい。           (続く)

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