2011年9月19日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(20) (20110919)

 “「和歌」の前の平等

 古事記』や『日本書紀』だけでなく、日本は意外に古代の文献が残っている国である。八世紀に成立した『万葉集(まんようしゅう)』には身分にかんけいなく、天皇から乞食(こじき)や遊女に至るまでの歌が載せられている。まさに国民的歌集と呼ぶべきものである。

 一方で、乞食や遊女の歌が天皇と同じ歌集に載るとはどういうことなのかと不思議になるが、これは当時の日本人の考え方を見る一つの鍵(かぎ)になる。

 ある国民の特徴を見るとき、彼らが「何の前において万人が平等であると考えているか」という見方をすると、大いに参考になる。例えば一神教の国では、万人は神の前に平等である。古代ローマでは法の前に平等であった。また、シナでは皇帝の前に平等で皇帝だけが偉かった、という見方ができる。

 ところが日本の場合は変わっていて、「和歌の前に平等」という思想があったようである。・・(中略)・・

 「日本には言霊(ことだま)信仰があって、言葉に霊力があると信じられていた。それゆえ日本語というものに対して特別の尊敬心があった。それを上手(うま)く使える人間は、人の心を動かすことができる。ゆえに、和歌ができる人は天皇と同じ本に名前を入れる価値があるという発想があったと思われる。

 しかしこれは後年になると多少緩(ゆる)んできて、あまり身分の低い人や罪人の場合は「読み人知らず」として勅撰(ちょくせん)集の中に入れるようになった。ただし「読み人知らず」とされても、だいたい誰だかわかっているようなものであった。”

 かくのみに ありけるものを 萩(はぎ)の花(はな)

       咲(さ)きてありやと 問(と)ひし君(きみ)はも 

              巻三・四五五  余明軍(よのみょうぐん)

 (このように はかなく亡くなられる お命でしたのに 「萩の花は咲いているか」と  お尋ねになった君は ああ) (『NHK日めくり万葉集』 選者・壇 ふみ より引用)

 余という氏姓は663年白村江の戦いで日本軍が唐・新羅連合軍に敗退した後、日本に引き揚げてきた百済の王族の子孫であることを示すものであろう。上記本にある解説によると、大納言大伴旅人が薨(こう)じたとき、資人(従者のこと)の余明軍が五首の挽歌を作り旅人を追悼した、その中の一首であるという。

 娘子(おとめ)らが 織(お)る機(はた)の上(うえ)を ま櫛(くし)もち

       掻上(かか)げ栲島(たくしま) 波(なみ)の間(ま)ゆ見(み)ゆ

              巻七・一二三三 作者不詳

 (おとめたちが布を織る 織り機の上の糸を 櫛で 掻き上げ、束ねる 「たく」という名の栲島が 波の間から見える) 選者・金 偉 (大学院留学生・中国)  (続く)

0 件のコメント: