2011年9月29日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(30) (20110929)

大化の改新(続き)

 当時は唐が強大な勢力を誇っていた。それに対応するため、天皇への権力集中と国政改革は緊急の課題となっていた。二人のクーデターの狙いも、実はそこにあったとされる。そのために唐の律令(りつりょう)制を手本として中央集権国家の建設をめざしたのが「大化の改新」であった。

大化二年(六四六)、「改新の詔(みことのり)」が出され、大化の改新がはじまった。・・(中略)・・日本の律令制が唐のそれと違うのは、神祇官(じんぎかん)を置き、いちばん高い位を与えた点である。唐には日本のような神様がいないので神祇官がいないのは当然なのだが、唐の真似をしたようでいちばん肝心なところは日本流になっているのは注目しておきたい。

さて、「改新の詔」の中心となるのは「公地公民制」であった。それは私有財産を廃止してすべての土地と人民を公有化する、すなわち天皇に帰属させるとした制度である。また、この公地公民制の基本となり、律令制の根幹となったのが「班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)」であった。

「班田収授法」は、天皇のものである公地を公民に貸し与えるために戸籍を作り、細かい規定を定めたものである。それに従って農民は土地を分け与えられ(口分田)、代わりに納税の義務を負った。その土地は六年後に返還しなければならなかった。・・(中略)・・

いったん豪族の土地を公民化した効果で、旧来の豪族の勢力は衰退し、代わりに律令制度による中央集権国家の官僚たちが力を持つようになり、新しい貴族が生まれてきた。その筆頭が中臣鎌足(なかとみのかまたり)を始祖とする藤原氏だったのである。”

談山神社で編んだ『大和多武峯(とうのみね)紀行』という小冊子がある。談山神社は鎌足を祀った神社であり、全国の約4千の藤原氏族のメッカのようなところである。ちなみに日本全国の氏族は15万から20万あるとされている。

この小冊子によれば、“鎌足公の氏名(うじな)は中臣(なかとみ)氏で、推古天皇二十二年(六一四年)八月、」大和国高市郡大原(今の明日香村小原)の邸で生まれ、幼名を鎌子と称した(別に茨城県鹿島の地の伝承もある)。父は御食子(みけこ)、母は大伴久比子(おおとものくひこ)の娘、大伴夫人であった。

中臣氏は、その名の通り、「なかつおみ」で人と神の間を取り持つ神官の家柄であった。・・(中略)・・僧旻(みん)の堂舎で『周易』(儒教の経典『五経』の一つ)の講義が始まっていた。たまたま遅刻してしまった公だったが、同席していた蘇我入鹿は彼にうやうやしくあいさつした。さすがの入鹿も公を認めていたのだ。授業が終わった後、旻は彼を近くに招き、「自分のもとに学ぶ学生のなかで優れているのは入鹿だが、君はそれを凌いでいる。自愛して将来を期して欲しい。」と励ましたという。”とある。

私と妻は明日香村の民宿に泊まり、村内を散策したことがあった。    (続く)

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