2011年9月25日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(26) (20110925)

仏教伝来をめぐる争い

 日本の国史編纂がはじまるより前、第二十九代欽明天皇(在位五三九~五七一)の一三年(五五二)に仏教伝来という重大な問題が起こった。

 それ以前より北九州など大陸との交通が多かった地域や帰化人の間で仏教はある程度広まっていたと考えられる。・・(中略)・・

 欽明天皇は「(百済の聖明王から献上された)この仏像を祀るべきであろうか」と大臣たちに尋ねた。すると蘇我稲目(そがのいなめ)(?~五七〇)は「西の国ではみなこれを礼拝しています。日本の国だけがどうして背(そむ)くことができましょうか」と強く崇拝を勧めた。これに対して、神武天皇以来の部族である大伴(おおとも)・物部(ものべ)・中臣(なかとみ)氏らの国粋派は「外国の神様を祀るのはよくない」と猛反対する。

 この両者の意見を聞いた欽明天皇は、日本の神の怒りに触れては大変だからと、蘇我稲目に試に礼拝させてみようと仏像を下げ渡した。稲目は自分の屋敷に寺を建て、仏像を拝みはじめた。するとその年、疫病(えきびょう)が流行し、多くの死者を出した。これは外国の神を拝んだ報いだと、物部・中臣両氏は天皇の許可を得て稲目の寺から仏像を奪い、難波の堀に投げ捨て、さらに寺を焼き払ってしまった。

 欽明天皇の子の敏達(びたつ)天皇(在位五七二~五八五)もまた仏教を信じなかったが、その后(きさき)の堅塩媛(きたしひめ)は仏教推進派の蘇我稲目の娘であり間違いなく仏教信者であったと考えられる。

 仏教は後宮(こうきゅう)から皇室に入り込むことになるのである。そして欽明天皇と堅塩媛の間に生まれ、稲目の孫娘を皇后に迎えた皇后に迎えた第三十代用明天皇(在位五八五~五八七)に至って初めて仏教を信するようになるのである。・・(中略)・・

 なぜ用明天皇の名前がほとんど無視されているのか。これは仏教というものが、強(し)いていえば一つの高い学問として入れられ、神道(しんとう)に代わるようなものとして捉(とら)える意識がなかったということを表している。「仏教はありがたい教えである」と天皇が考えたとしても、それは儒教を学んだのと同じで、従来の神道を捨てたのだとは日本人の誰も思わなかったのである。

 『日本書紀』の中にも、用明天皇について「仏の法(のり)を信じられ、神の道(みち)を尊ばれた」と書かれているように、仏教は神道に代わる宗教としては考えられていなかったのである。・・(中略)・・(仏教排斥派の物部守屋討伐軍に加わっていた)聖徳太子(五七四~六二二)は戦場で四天王像をつくり、「敵に勝たせてくだされば寺塔を建てましょう」と祈願し、その誓いの言葉どおり四天王寺を建てたといわれる。これ以降、日本では神社を尊びながら仏教を入れるという形に定着するのである。”

 インド・中国・朝鮮では仏教は廃れたのも同然である。日本では仏教の研究が発達し、「人間の学」として日本人の精神文化の根本を成している。        (続く)

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