2011年9月17日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(18) (20110917)

 三韓征伐と広開土王碑

 その大陸との関係といえば、戦前の歴史では神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)というものが重視されていた。『日本書紀』によれば、これは西暦200年頃、急死した仲哀(ちゅうあい)天皇に代わって、その后(きさき)である神功皇后が朝鮮(当時の三韓)を征伐したという話である。韓国側の史料でも、369年から390年代にかけて日本がかなり大規模な遠征を行ったことになっている。

 戦後は多くの歴史家から異論が出て、あまり語られなくなったが、戦前は神功皇后の補佐役の武内宿禰(たけのうちのすくね)がお礼の肖像にもなっており、三韓征伐は日本人に広く知られていた。

 しかしその事実が単なる作り話ではないことを示唆する非常に重要な史料がある。それは北朝鮮との国境に近い旧満州のあたり(中国吉林(きつりん)省の鴨緑江(おうりょくこう)中流北岸に残っている高句麗(こうくり)の広開土王(こうかいどおう)の碑である。これは現存する東アジアで最大の碑であるが、その中に西暦400年前後の倭の軍隊が百済(くだら)・新羅(しらぎ)を征服し、今の平城近くのあたりまで攻め込んだという話が刻まれているのである。

 百残新羅旧是属民/由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民
 九年己亥百残違誓与倭和/通王巡下平壌而新羅遣使白王云倭人満其国境潰破
 城池以奴客為民帰(□は欠字。『国史大辞典』吉川弘文館より)

 百済(くだら)新羅(しらぎ)は旧(もと)(これ)属民(ぞくみん)なり。由来朝貢(ちょうこう)す。而(しか)るに倭(わ)、辛卯(かのとう)の年を以(もっ)て来(きた)り、海を渡り、百残□□新羅を破り、以(もっ)て臣民と為(な)す。九年己亥(つちのとい)、百残誓(ちかい)に違(たが)い倭と和通す。王巡りて平壌(へいじょう)に下る。而るに新羅使(つかい)を遣(つか)わして王に白(もう)していわく、倭人国境に満ち、城池(じょうち)を潰破(かいは)し、奴客を以て民となして帰る。

 これは当時の碑に刻まれているわけであるから、多少事実が不正確であったとしても、全くの嘘ということではあるまい。

 ではこの碑文は何を示しているかというと、当時の日本には非常に強大なる中央政権がすでに成立していて朝鮮半島に兵を出し征服するという相当な軍事力を持っていたという事実である。同時に、日本が南朝鮮に任那(みまな)のような植民地を持っていたという伝承も嘘とはいえないという傍証(ぼうしょう)になるだろう。”

 このことについて、『日本列島の大王たち』(朝日文庫)を書いた古田武彦氏は、銅鐸などの考古物の分布その他を検証しながら「朝鮮半島南部には北九州にいた豪族に支配下の倭人が住んでいてその倭人の軍隊が三韓征伐を行った。その豪族の親族である日向の一族(後の神武天皇)が各地の豪族の協力により東征し即位したあと、北九州の豪族の歴史を自分の歴史にしてしまった」というようなことを言っている。        (続く)