2011年9月28日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(29) (20110928)

大化の改新

 ただ仏教は日本に入ったときは誤解もあったし、新しい外国文明の持つ独特の毒もあった。つまり、仏教を崇拝する中心勢力であった蘇我氏が、仏教を背景にして強大な力を得たのである。

 厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)と泊瀬部皇子(はっせべのみこ)(崇峻天皇)とともに物部氏を滅ぼした蘇我馬子(そがのうまこ)は泊瀬部皇子(はっせべのみこ)を用明天皇の次の天皇に据え、自らは政治の実権を握った。これに不満を抱いた崇峻天皇は馬子の排斥を願うが、逆に馬子の差し向けた部下によって暗殺されてしまう。

 その後、崇峻天皇の暗殺によって空位となった皇位を継いだのが、用明天皇と同じく欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれ、用明天皇の前の敏達(びたつ)天皇の皇后であった豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)、すなわち推古(すいこ)天皇であった。そして聖徳太子が推古天皇の摂政(せっしょう)となって国政を担うことになるのだが、その背後には相変わらず蘇我氏の存在があった。すなわち蘇我氏による朝廷支配である。

 馬子の子の蝦夷、さらにその子の入鹿の時代になると、蘇我氏の専横ぶりはますます激しさを増し、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)も皇位争いによって皇子とともに入鹿に討たれてしまい、太子の血を引く上宮王(じょうぐうおう)家は滅亡した。やがて入鹿は、自ら天皇家を継ごうと野心を示すようになった。・・(中略)・・”

 この蘇我氏の横暴ぶりを憎み、クーデターを企てる勢力があった。かつて仏教の問題で蘇我氏と対立していた中臣(なかとみ)氏の血を引く若き天才・中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原氏の先祖)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智(てんじ)天皇である。二人は密かに蘇我氏打倒計画をめぐらし、女帝皇極(こうぎょく)天皇の四年(六四五)、三韓(新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)からの使者が来朝し、進貢の儀式が行われている最中に、そこに出席していた入鹿を切り殺した。息子の入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自宅に火を放って自害した。”

 推古天皇は女帝であった。推古天皇の同母兄が用明天皇である。その用明天皇の母方の曾祖父が蘇我稲目であり、稲目の子が馬子である。聖徳太子は馬子の娘を妃にしている。その聖徳太子の子・山背大兄王は、母方の曾祖父・馬子の孫・入鹿によって殺されている。

 推古天皇の父は第二六代継体天皇の皇子・欽明(きんめい)天皇であり、母方の祖父は蘇我稲目である。古代に推古天皇・皇極天皇と女帝が出ているが、その後は継体天皇の血を引く男系天皇になっている。神武天皇から今上天皇に至るまで間、途中リリーフの女帝がいても必ず神武天皇のY染色体遺伝子を受け継ぐ天皇が皇統を継いでいる。このように日本の君主は世界に類例がない血統である。もし愛子様が天皇になりその後男系が途絶えた場合、現状では神武天皇Y染色体遺伝子を受け継ぐ皇統が途絶えることになる。(続く)

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