2012年1月8日日曜日

『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(12)(20120108)  

  “そこで本来の生命力と表現された肉体的生命力はだいぶ違うのであります。外見は堂々として頑強に見えるのに弱いという人は、潜在的生命力を余り持っていないということになる。反対に、弱そうに見えて強いというのは、潜在的生命力が旺盛だということになります。

  我々は絶えず潜在的生命力を養成しなければならない。これは普段の養生と陰得であります。その意味で体重が二十何貫(かん)もあるというのは決してめでたい現象ではないので、駿馬のように引き締まっていなければならない。

  その意味から社会的活動等というものも同じことであります。前にも申し上げましたように持っているエネルギーのごく一部分が社会活動になる。そして、その残りの全部が、我々の内面生活に向けられて、はじめてめでたい人格であります。不相応に出世するよりは、それより少し低めに運が悪いという位が本当の生活で、かくして子孫に出世をする者が出てくるわけであります。

  表現とは氷山の如きもので、隠された偉大な部分を持っている。潜在力を持っているほどよいのであります。そして表現は分化になります。分化するほど先鋭化、末梢化するんで、分かれる果(はて)は行き詰まり、分からなくなってしまう。そして簡単に破滅する。没落する。そしてまた、元の潜在にかえる。斯様にして循環していくわけであります。 

 知性のハタラキ等も分化のハタラキですから陽性であります。あまり理屈っぽくなると真実を失って分からなくなってしまう。  表現・分化、・発展は陽の特徴であるが、それだけに披露し易く、失い易く、分裂し易く、破滅しやすい。”(以上、『安岡正篤 易経講座』より引用。)

  ここでは「生命」の永遠の流れ・循環というものについて説明されている。ここでは易経のエッセンスが説明されている。人生を生きる上で誰にも悩みがあるが、自らを易経で説く天(てん)に委ねればその悩みは解消するのではないだろうか?その「天」に委ねるにあたり、「求めよさらば与えられん」ではないが、求める人に対しては最新の素粒子理論など最新の科学がそのように自らを「天」に委ねる手助けをしてくれると思う。

  「『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(5)(20120101)」に“そしてこの命(めい)とは絶対的のハタラキであるが、人間に与えられたところの知性という機能を以てこれを研究すると、その中の種々の素質や種々の関係、原因、結果というような関係、そういう複雑なものが含まれている。天の中、命(めい)の中に含まれているその内容、その内容の関係、成立関係、こういうものを数(すう)と申します。”とある。

  この数(すう)の中において次の循環があるということが説明されている。 ① 「絶えず潜在的生命力を養成」→「持っているエネルギーのごく一部分が社会活動」→「不相応に出世するよりは、それより少し低めに運が悪いという位が本当の生活」→「かくして子孫に出世をする者が出てくるわけ」 ② 「分化するほど先鋭化、末梢化」→「簡単に破滅する。没落する。」→「元の潜在にかえる。」→「斯様にして循環」        (続く)