2012年1月4日水曜日


『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(8)(20120104)

 “人間自惚(うぬぼれ)と瘡(かさ(くさ))けとのない者はないと言いますが、これは人の非情な恵みであります。

 どんな馬鹿でも徹底的に自分を馬鹿だとは思っていない。俺も世間からいうとくだらん人間かも知らんが、こう見えてもこれでなかなか良いところがあるんだ、くらいの自惚は皆持っているんで、それを失ったら本当に耐えられないことであります。

 真実に自己を否定して転ずるということは非常に難しいことであります。伯玉の「行年五十にして四十九年の非を知る」というのは一度否定して改めて前進するということでありまして、真実に自己を否定して転ずるということは非常に難しいことであります。

 准南子(えなんじ)はさらにそれを発展させて「六十にして六十化す」と申して居ります。五十年にして四十九年の非を知りますます勉強する。六十になっただけの変化をする。それでこそ天であり命を知る者である。

 七十になっても七十になっただけの変化をする。生きている限りは変化をして已まない。唯変化するだけではなく延びる、進歩である。これが本当の易学・易道であります。
 宇宙というものは斯様(かよう)に本質が無限の創造であり、変化であり行動であり、行いであるから、したがって我々の心理の会得である知というものも、その本質においては行(こう)でなければならぬ、認識は行動性、実践性を持たなければならぬ。”

 “淮南子 前漢の武帝の時代に南(わいなん)の地を治めていた淮南王劉安(前一七九~前一二二)が多数の学者を集めて編纂させた哲学書。十部十二篇からなる。道家思想を中心として、儒家・法家・陰陽家など諸家の思想を交えて書かれている。” (以上、『安岡正篤 易経講座』より引用。)

 水前寺清子の「人生は ワン・ツー・パンチ汗かき べそかき 歩こうよ あなたのつけた 足あとにゃきれいな花が 咲くでしょう 腕を振って 足をあげてワン・ツー ワン・ツー休まないで 歩け」という歌がある。これは正しく易道である。途中で投げ出してはいけないのだ。もし途中で投げ出すようであれば、その人は易学でいう「行」を捨てたことになり最早死んでいる状態と変わらない。
学問をするというのは「知」の探究であり、それは行動性・実践性を伴うものである。そういうことを安岡正篤先生はここで教えて下さっている。「知は力・継続は力」という諺には真理がある。その真理はこの安岡先生の『易経講座』で具体的に示されている。
                                   (続く)