2012年1月26日木曜日


幸せは何処にあるのか (20120126)

 今日は久しぶり朝から雲一つなく穏やかな温和な日和である。わが家は女房と二人だけの落ち着いた平和な暮らしが続いている。子たちはそれぞれ良い会社に勤め、良い仕事をし、それぞれの家庭でも何一つ問題を抱えておらず、それぞれ落ち着いた平和な暮らしをしている。男の一族は「絵に描いた」のように幸せだと、7、8年前他界してしまった近所の女房の友だちがよく言っていたという。

 しかしそれは決して努力なしには得られている幸せではない。勿論幸運もあったがその幸運さえも努力なしに得られたものではない。一族の「中心」は女房である。男は「外心」のようなものである。「外心」は太陽のようなものである。自転する太陽を「中心」に太陽の周りを自転しながら公転している地球のようなものである。女房が「陰」なれば、わ男は「陽」である。同様に息子たち各夫婦においてもそれぞれ嫁が「中心」にあって「陰」であり、わしの血統の息子たちはそれぞれ「外心」にあって「陽」である。それぞれ陰陽相響き合って「中」を為す。かくして一族全体が暖かい光に包まれている。

 万物は永遠に同じ形をとどめるものではない。ある日突然何らかの原因で異変が生じ、わが一族の中に緊張が生じることもあろう。そのとき男はそれは「天」による「命」であると謙虚に受け止め、決して動じないつもりである。しかし男はそのようなことが起きないようには常々「天」に祈りの気持ちを捧げ、己の振る舞いは慎しみ深くしなければならぬと自戒している。小心で損得勘定をし、ケチを張り、見栄を張ったところで何の得ることがあるだろうか?それよりも一族の中で折り目節目に贈答をしあい、それを通じて暖かい心を通い合わせることの方がはるかに大事である。わが女房は自然にそれができている。嫁たちも姑を見習っていつの間にか良い習慣が身に付いてきている。

何故、それが自然にできるのだろうか?それは根本的には女房の性格にある。男の女房には天然のおおらかさが備わっている。嫁たちもそれぞれにいわゆる「悪気(わるげ)」は一切ない。かといっていわゆる頭の悪いお人好しでもないから、相手が善い人か邪気・陰気のある人かどうかは直感的に識別できる。例えば戸別訪問者に対しても電話による売り込みに対しても、その売り込みする人を傷つけないように丁寧にお断りしている。一般に子供の頃から大学時代の交友関係において、何かと自己主張し、相手より優位に立とうとする者は、交際上手かもしれないが本当の意味での親友はいないものである。淋しいから猶一層仲間との交歓を求め、一時の歓談の中に幸せを感じるだけに終わってしまうものである。男の女房や嫁たちにはそのようなところが全くない。

家庭の幸せ、一族の幸せは、一に母にある。母は「中心」にいて軸は一定でぶれずに周りを回し、父は外にあって全体を回す。そして「中」する。これが易経で説かれる理想の形であるとわしは理解しておる。そのハーモニーが男の家・一族において自然に出来上がっているのは、一に「天(てん)の命(めい)により自分たちが生かされているからである。生かされるのも死するのもすべて天の命によるものである」、と男は理解している。